シンガポール通信−プレッシャーに押しつぶされた偶像:理研笹井氏の死に思う 5

いろいろとかってな事を書いて来たので、理研笹井氏の死に関してはこの辺りで打ち止めにしたいけれども、最後に彼の自殺という行為に関して考えてみよう。

笹井氏の自殺は、STAP細胞発見のニュースがノーベル賞クラスの成果として日本国内で熱狂的に迎えられそれが一転してその成果が疑問視され、マスコミを始めとして多方面からSTAP細胞事件の責任者としていわば責められる立場にあった人の自殺だけに、ショッキングなニュースであった。

しかしこれまでのSTAP細胞事件に関する大騒ぎに比較すると、笹井氏の自殺はそれほどの大騒ぎになることなく終ったという感想を持つのは私だけだろうか。これは一つには、マスコミが自分たちが騒ぎすぎた事が彼を自殺に追いやったといういわば引け目を感じているために、その報道を控えたという面があると思われる。

と同時に、STAP細胞問題の最高責任者の死という事実によって、この問題を興味本位に扱おうとする点からすると、STAP細胞問題がいわば強制的に終らされたために拍子抜けしてしまったという面もあるかもしれない。

しかしSTAP細胞事件は彼の死で終った訳ではない。現在もSTAP細胞作成の再現実験が継続されているわけであるから、笹井氏の死は研究という面からすると決してSTAP細胞事件を終らせた訳ではない。この点が、主犯と目された人間の死によって捜査が強制的に終わりを迎えるという、刑事事件で良くあるような結末とは異なる点である。

それではなぜ笹井氏は自殺をしたのだろう。この点に関しては、多分ネット上ではいろいろと憶測が飛び交っている事だろう。いわくSTAP細胞作成という成果を捏造した主役が笹井氏自身だったので追いつめられたのだとか、理研上層部から強い圧力がかかり理研存続のために詰め腹を切らされたのだとか、などの意見が飛び交っているのではないだろうか。

しかし私は単純に、自分が作成に成功したと信じていたSTAP細胞に疑義が提出され、その存在が疑問視されるようになった事が、彼の自殺の直接の原因だと思う。いわばうまく行ったと思っていた研究成果が厳密にチェックすると誤っていた可能性がある事に気付き、失望と落胆のために自殺という手段を選んだのではあるまいか。つまりこれまで全てうまく行っていたと本人が信じていた事柄が行き詰まって失敗の可能性が大きくなった事が、彼の中に強い失望感と自己嫌悪の感情を生じさせたのであろう。

笹井氏の経歴を見ると、再生医療の分野で多くの世界的な成果を出し、30代半ばで京大教授となり、この分野で世界のリーダーと目されていた事がわかる。つまりエリート街道をばく進して来た研究者なのである。たぶん挫折というものを味わった事がないのだろう。その意味では今回のSTAP細胞事件が彼の最初の挫折であり、これまで挫折という経験がないだけに、それを乗り越えられるだけの精神の強さを持っていなかったということではないだろうか。

挫折を知らないエリートが、最初の挫折を乗り越えられなくて自殺するというのは、研究畑のみならずしばしば見受けられる現象である。特に研究者というのは世間から隔離された純粋な世界に住んでいるだけに、研究面における挫折がその研究者のすべてを否定する事実のように本人にとって感じられる事が多い。

私が勤務していたNTTの研究所も、かっては一流大学のその上澄みの人間だけを採用したといわれていただけに、挫折を知らないエリート研究者の集まりであった。しかも優秀な人間が集まっている訳であるから、当然の事ながら研究者同士の研究成果の争いも激烈であった。

私も何度も周りの研究者との競争に押しつぶされそうな感じを受けたものである。その結果として自殺者も多かった。年に数人は自殺者が出るというのが当時の状況であった(現在はどうか知らないが)。

昔話になってしまうが、日曜に出勤してプログラムを作成していたらなかなかバグが取れないおかしいなと思っていたら、翌日出勤して知った事であるが一階上の研究室で研究者が首を吊っていたことがある。研究に行き詰まって自殺をしたとの事であったが、その研究者の恨みが階下の私の研究室にまで届いて、バグが取れなかったのかなどと思ったものである。

また当時は勤務が終ってから麻雀仲間を誘って時々麻雀をしていたものであるが、ある日の夕方三人が先に集まって残り一人(A君としておこう)を待っていたがなかなか来ない。研究室に電話してみるとただならぬ雰囲気で、A君はとても来れる状態ではないという。これも翌日知った事であるが、私たち三人が研究所の通勤バスで研究所を離れた直後にA君の研究室の同僚が研究所のビルから飛び降り自殺をしたということであった。

今回の笹井氏の自殺もそうであるが、研究者に限らず専門職の人は仕事に行き詰まった時に職場で自殺する傾向があるようである。それだけ自分の仕事に対する執念をもっているということだろうか。