シンガポール通信−プレッシャーに押しつぶされた偶像:理研笹井氏の死に思う 4

当時私はシンガポールにいたので、この日本中を巻き込んだかのような熱狂を少し冷めた目で見る事が出来た。そのため、胡散臭いとは言わないまでも、何か納得できないものをこの研究成果の発表から感じた。

具体的に言えばそれはこういう事である。もし弱酸性の液に浸す事により細胞が初期化され万能細胞になるのならば、弱酸性の温泉に入っていると私たちの皮膚細胞は初期化されて万能細胞になるという事になる。また酸っぱいものを食べたら、私たちの食堂や胃の表面の細胞が初期化されてしまう事になる。そうだとすると、恐ろしくて弱酸性の温泉に入ったり酸っぱいものを食べたりできないではないか。

もちろんSTAP細胞作成法は、単に弱酸性の液に浸せば全ての細胞が初期化されるというような、単純な現象ではないだろう。もっと複雑な条件があるはずである。そうであるならば、その条件をもっと明確に示す必要がある。単に弱酸性の液に浸すという素人受けする説明ではなくて、厳密な条件の説明が必要ではないか。これが、私がSTAP細胞作成成功のニュースとそれによって日本中に生じた熱狂を知って最初に感じた事である。

日本中がこのニュースに熱狂している期間中に、少なくない数の日本人が私のオフィスを訪問してきたので、お客が来る度にSTAP細胞作成成功というニュースを本当だと思うかどうかと聞いてみたものである。ところが全員が、このニュースは本当と思うと答えたのである。その理由を聞いてみても、これだけマスコミが騒ぐからというのがその人達の答えであった。

もちろんSTAP細胞作成成功のニュースに対する疑義が提出されるまでの短い期間だったのかもしれないが、一時は日本中をこのニュースを真実と受け取らなければならないというような雰囲気が取り巻いていたのではなかろうか。これは同時に、私にとってマスコミの力の大きさを知らされた場面でもあった。

さて最初の「笹井氏の死がSTAP細胞の真相解明を困難にした」というマスコミ等で見かけられる論調の話に戻ろう。私はここまで書いて来た事が真相であり、それ以外の何ものでもないと思っている。しかしどうもマスコミや一般の人々は、そのような説明では納得しないものらしい。彼等が知りたいのは「小保方氏が本当にSTAP細胞作成成功のデータを捏造したのか否か」そしてさらに「STAP細胞は本当に存在するのか否か」ということではあるまいか。

この最初の質問に対しての私の答えは、このブログでも書いて来たように「小保方氏はデータを意識的に捏造はしていない。しかしながらまだ研究者として十分成熟していない彼女が一人で実験を進めた事により、実験の過程でミスが混入した恐れはある。ミスがあったか否かは現在進められている再現実験の結果を待つしかない」というものである。

また「実際にSTAP細胞は存在するのか否か」という質問に対しては「わからない」と答えるしかない。科学の世界では、再現実験が成功してこそある発見が真実であることが証明される事になる。しかし再現実験が成功しないからといって、その発見が真実ではないという事にはならない。(ある事実がないという事を証明するのは至難の業である。)

したがって再現実験をある程度行い、それでも再現実験が成功しない場合は、「提案された手法を繰り返しても主張される成果が得られなかった。従ってこの手法は科学的な手法としては不確実であると判断される」という事を報告しておしまいという事にならざるを得ない。

「つまりもしかしたら出来るかもしれないのであるが、そのための必要条件が不明なために成果の再現ができないので、この方法は不確実でありしばらくほっておきましょう」ということなのである。どうも白黒をはっきりさせたいマスコミなどにはこのような結論は受け入れがたいものらしい。しかし研究の世界ではこれはごくごく普通に起こる状況なのである。

したがって私は、現在理研で行われている再現実験の結果の予測としては、「STAP細胞があるかどうか現時点では不明」という結論になるものと思っているし、それで何の問題もないと思っている。科学の世界ではこれは良く起こる出来事だからである。