シンガポール通信−ウィリアム・マクニール「戦争の世界史」3

さてそれでは、「戦争の世界史」において東洋(中国)が西洋に比較して軍事の上で優位に立っていたとする西暦1000年〜1500年はどのような時代か。それは中国では、宋(960年〜1279年)、元(1271年〜1368年)、および明(1368年〜1644年)の初期の時代である。

元はチンギスハンによって建設された東ヨーロッパにまで及ぶ巨大なモンゴル帝国が分裂後、中国を拠点として再統一された国であるから、軍事面で西洋に対して優位に立っていたというのは理解できる。しかしその東洋の西洋に対する優位性がすでに宋の時代に確立した事や、元の後をついだ明の前半までその優位性が維持されたというのは、私たちの多くにとってあまり馴染みのない情報ではあるまいか。

特に「戦争の世界史」では、宋の時代に宋が軍事的にもさらには経済的にも極めて進んでおり、西洋を圧倒するような勢いであった事が記述されている。宋以前の中国統一王朝である隋や唐が中央集権的な国家であり、経済も国によって統制がされたのに対して、宋ではそのような強い統制が行われず、現代的にいう自由主義経済が極めて栄えた時代であったという。

特に金属として従来の青銅に対して鉄が使われ始め、青銅に比較して安価なため急速にひろまった。軍事面では兵士の鎧・刀が青銅から鉄に変わり、それが安価なために従来一部の高級将校にしか使用されなかった鎧・刀が全ての兵士に行き渡るようになった。

そのために製鉄業が大いに栄えたという。中国の製鉄業の生産高は例えば宋の初期の998年には約3万トンであったものが、1078年には12万5000トン以上であった。そしてこれは、産業革命初期のイギリスの鉄の生産量にほぼ等しい。イギリスの産業革命は18世紀半ばに始まったのであるから、何とそれに600年先んじて中国ではほぼ同じ鉄の生産量を実現していた事になる。

そして製鉄業が盛んであった華北地方では何万人という労働者を雇用する巨大な製鉄企業がこの地域に発生した。まさに産業革命時のイギリスに相当するような熱気にあふれた自由市場が、この当時の宋には存在していた訳である。

もちろんそれは、単に鉄鉱山や製鉄に用いる石炭が中国に豊富にあったからだけではない。それを消費するだけの市場と鉄に対する需要がなければ、このような産業は生じないからである。そしてそれは、農業技術の発達により食料が十分に供給されるようになり、それに伴い人口が爆発的に増加したという背景と共に、金属の青銅から鉄への移行という大きな変化があった事によって生じたのだろう。

そしてまた、それを支援するような国家の自由経済に対する政策があったのだろう。もちろんそれは積極的な政策というよりは、市場経済に対する強い規制をしかないという消極的な施策であったのであろうが、自由主義経済の発達に対する十分な条件が整っていた宋の時代には、そのような国家の消極的な政策であっても十分であったのであろう。

かって中国の中世の宋の時代に、現在の資本主義における自由競争を基本論理とした自由主義経済にもとづいた社会が存在していたというのは、何とも私たちを興奮させてくれるではないか。現在の中国は、共産主義のもとで経済面でのみ自由主義経済が取り入れられている。したがってそれは国家の監視下における自由主義経済であって、国家にとって都合が悪い事があればたちまち規制がかかるという制限された自由主義経済なのである。

しかしそのような強い規制の基でも、自由経済主義が認められる事により人々の間の自由競争が始まり、そしてそれが現代中国を経済面で世界のトップを狙う位置にまで押し上げたのである。もちろんそれを中国の人々のとみに対する強い欲望によると解釈する事も可能であろうが、それ以上に中国の持つ巨大な人口と市場、そして豊富な天然資源がそれを支える大きな条件となっているのであろう。

隋や唐の首都がきわめて宮廷色の強い街作りや、規制が引かれていたのに対して、宋の首都である開封は極めて自由な雰囲気の街であり、常時街の至る所で市場が開かれ、人々は早朝から深夜までそれらの市場で商品を売ったり、買ったり、食事をしたり談笑し合ったりしたという。何とも自由主義経済にビッタリの風景ではないか。