シンガポール通信−白石隆「海の帝国」

この本は前回も述べたように、シンガポール紀伊国屋で話題の本という形で平積みになっているのを見つけて買ったものである。話題といっても発行は2000年だから、もう10年以上前の出版である。新刊という訳ではない。したがって、紀伊国屋としても話題の新刊というのではなくて、シンガポールに関係のある話題を取り扱った本として平積みにしていたのであろう。シンガポール在住の日本人が買っているのかもしれない。

この本は副題が「アジアをどう考えるか」となっている。つまりアジアを海の帝国としてとらえようという訳であろう。アジアを海の帝国としてとらえるとはどういう意味か。かってはアジアの国々の中では、中国が突出して強大な国家であった。したがって、多の国々は多かれ少なかれ中国と良好な関係を保って行く必要があった。

具体的には、朝貢貿易という形で中国と国家レベルで貿易を行うことにより、良好な関係を保つシステムである。朝貢貿易とは、中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢ぎ物を捧げるという事を行い、それに対して中国の皇帝が返礼と言う形で、贈り物をするという形を取るので、形式的には中国を支配国とし周辺国を従属国という関係が成り立っているように見える。

しかしながら、貢ぎ物をするということは、周辺国が従属国として中国に一方向的に捧げ物をするという事を意味しているのではない。あくまでも貢ぎ物というのは形式であって、それに対する返礼も品物の形で贈られるのである。

したがってこれは貢ぎ物という形を取った輸出行為であり、それに対して返礼を受け取るという形で輸入行為を行うのであるから、実際には貿易である。ただしこれはあくまでも国家が管理する貿易であって、私人が行う自由貿易ではなかった。この点がヨーロッパで早くから私人の行う自由貿易が広まっていたのに対して異なっており、東洋の貿易の仕方は独特であったといえるだろう。このように東洋において自由貿易の発達が遅れた事が後々東洋が西洋に対して遅れをとる事になった一つの理由かもしれない。

ともかくも西洋においては列強が競い合っていたのに対して、東洋では中国が突出した峡谷であった訳である。ところがそのような状況が中国における明の時代の後半から清の時代にかけて揺らぎ始める。それはちょうど西洋で大航海時代が始まり、16世紀初頭にポルトガルがインドやマレー半島に拠点を設置し、東南アジアとの独占貿易を開始しかつ拠点を中心として周辺部を植民地化しようという試みを始めた時期に合致している。

その意味で東南アジアにおいては16世紀から17世紀にかけてポルトガルが大きな権力をふるっていた。その後オランダがポルトガルに取って代わり、17世紀半ばから18世紀末迄はオランダが東南アジアにおける貿易を独占し実質的に東南アジアを植民地化した。しかしそのオランダの力もナポレオン戦争によってフランスの支配下に置かれて事から弱体化し、かわって19世紀初頭からイギリスが東南アジア支配に乗り出す。

イギリスはインドにおける東インド会社を拠点として貿易に力を入れると共に、徐々にインドにおいて政治的な力を発揮し始め19世紀半ばにはインドを植民地化する。そしてそれと共に徐々に触手を東南アジアに広げ、19世紀初頭から19世紀半ばにかけてマラッカ、シンガポールなどを植民地化し、これらを拠点としてマラッカ海峡を中心とした海峡植民地を成立させた。

したがって、第2次大戦以降にこれらの国々が次々に独立するまでは、イギリスは実質的に東南アジア全域を支配していたといっていい。その中心がマラッカ・シンガポールという海に面した都市にあったため、いわば東南アジアの海を中心とした帝国が成立していたのである。それをもってこの本では、「海の帝国」と呼んでいるのであろう。

したがってこの本は、19世紀の初めから現在までの約200年間の東南アジアの政治的なそして経済的な動きを概観しようとしているといえよう。それはある意味で200年に及ぶイギリスの東南アジアにおける植民地政策の推移を物語っているといえるかもしれない。

しかしイギリスの立場に立って、イギリスの植民地政策を記述しただけだとしたら、それは私たち東洋人から見て別に興味深いとは言えないだろう。しかしこの本は中々興味深く読ませてくれる。それはなぜだろう。

(続く)