シンガポール通信−白石隆「海の帝国」2

この著書は、19世紀初頭マラッカにいたラッフルズの話から始まる。ラッフルズは良く知られているように、1819年にシンガポールを建設し、シンガポールの建国の父としてシンガポール人に敬愛されている人物である。

彼はイギリスの東インド会社に職員として採用され、そのマレー語に堪能な点やマレーの現地情勢に詳しい事から、東インド会社代表であるミントー卿から、東インド会社が東南アジア全域をイギリスの植民地としてイギリスの東南アジア帝国を建設する事を、その仕事として期待されていた。

この当時すでにインドはイギリスによって半ば植民地化されており、イギリスはマラッカを中心としてマラッカ海峡に面する地域においても植民地化を進めていた。さらにイギリスはオーストラリアは当初流刑地として植民を開始したが、19世紀に入ると本格的に一般人の植民を開始し植民地化を進めていた。

したがってイギリスが目指していたのは、ベンガル湾からマラッカ海峡を経てスマトラ・ジャワ・バリ・セレベスを経てモルッカ諸島さらにはオーストラリアにまで至る、海に面した地域をイギリスのアジアにおける一大植民地帝国とする事であった。そしてそれがこの本のタイトルである「海の帝国」の意味する所である。

しかしながら実際には、ジャワがナポレオン戦争終結に伴いオランダに返還されたことから、この構想の核であるジャワを経由してオーストラリアに至る帝国の建設という構想は挫折する。一方アヘン貿易が対中国貿易の最大の輸出品目になったため、香港・上海という都市がイギリスのアジアにおける新しい貿易拠点となった。

そのためイギリスの東南アジア帝国の構想は、マラッカ海峡に面したペナン・マラッカからシンガポールを経て香港・上海へと至るV字型の線に沿った地域において建設される事となった。当然その場合、V字型の屈折点がその帝国の中心となる。そしてその屈折点にシンガポールが位置している。したがってイギリスの東南アジア帝国の核となったのはシンガポールなのである。それ以降シンガポールはアジアにおける貿易の拠点となり、そしてそれは現在迄続いている。

現在シンガポールが香港と並んでシンガポール最大の貿易の拠点であり、さらにシンガポールが東西文化の交流点だと言われているのは、まさにイギリスが19世紀初頭から東南アジア帝国を建設した時に、シンガポールをその核として建設した事に始まっているのである。その意味でシンガポールラッフルズの建国によりイギリスの植民地として出発しながら、現在においてもラッフルズシンガポール建国の父と見なされ尊敬されている理由なのであろう。

さてシンガポールが東南アジア帝国に持ち込んだものは何だったのか。それは国家という概念であり、近代国家の統治という方法論である。ポルトガル・オランダ・イギリスなどの西洋諸国が東南アジアに進出してくるまでは、この地域においては国家という概念は希薄だった。東南アジアの国々においては、各地に有力な豪族が割拠しており、それらの中でも特に強力な豪族が王としてその周辺の地域に影響力を行使していた。

当然の事ながら、これらの豪族の勢力の盛衰に伴い、これらの王達の勢力関係も変化する。これらの王達が発揮する影響力は、王が居る首都が最も強くそこから距離が離れると共に減衰する。したがって、これらの王がいわば統治する王国は、明確な統治システムや警察制度のようなものをもたず、さらに現在のような明快な国境というものはない、いわば前国家的な性質のものであった。それは別のいい方をすると、各王が影響力を発揮している地域を緩やかに結ぶマンダラ的な統治システムであるといえる。

ちょうど日本でいえば、群雄が割拠していた戦国時代に相当するのであろう。日本の場合は、戦国時代に終止符を打ち全国を統一国家としたのは豊臣秀吉徳川家康であり、徳川家康に始まる徳川幕府による統治により、いわば日本は統一国家としての体裁を整えた。

東南アジアにおいて英国が持ち込もうとしたのは近代国家の概念であり、そして近代国家を統治するシステムであった。近代国家とは中央集権的な統治機構を持ち、それに支えられた司法、行政、さらには軍事などのシステムを持つ国家の事である。これは現在の私たちに取っては極当然の事であるが、19世紀はようやく西洋においてこの近代国家の概念に基づき各国々が近代国家としての体裁を整えた時期である。当然のことながら、東南アジアにおいてはまだそれ以前の全国家的なもしくはマンダラ的な統治システムが機能していた。イギリスはそこに近代的な国家統治システムを持ち込もうとしたのである。