シンガポール通信−東京に会社設立

シンガポール生活もすでに6年半が経過した。これまでの私のキャリアを振り返ってみると、NTTに20年以上勤務したのが私の主なキャリアである。その後はATR7年、関学6年と、いずれも6、7年で次の仕事に変わっている。シンガポール生活も6年以上経過したという事は、そろそろ次の事を考える時期に来ていることになる。

NUSは米国の大学と同じで、基本的には定年というルールはない。しかしながら、そこはアジアの国。定年がないのは表向きであって、65歳あたりが非公式には定年として考えられており、その歳に達すると大半の教授は自主的に退官することになっているらしい。道理であまり歳を取った教授連中というのには出会わない事に気付いた。

ということは65歳をとっくに過ぎている私は、そろそろ退官する事を期待されているということになる。これもアジア的かと思うが、直接にそれを言われる事は無い。それは表向き定年というルールが無い事からきているのだろう。しかしアジアの感覚からすると自ら退官する事が暗黙に求められているようである。

ということで昨年末をもってフルタイムの教授職からは退き、非常勤の教授と言う事にしてもらった。NUSの教授兼インタラクティブディジタルメディア研究所の所長としての6年間に関してのエピソードなどは、またこのブログで何度か取り上げようと思っている。ともかくも非常勤になったということは縛られる事が格段に少なくなるので、現在はシンガポールに来て以来常に感じていたストレスからは開放された自由な気分である。

しかし同時に張り詰めた緊張感が無いというのも、なんだかよって立つ物がなくなった不安定な気持ちになるものである。なるほどこれが定年になったビジネスマンが感じる気持ちかと納得した次第である。さてこれかだどうするか。もっともリスクが無いのは引退生活に入って年金で生活する事なのだけれども、まだ少し早い気もする。

実は昨年はシンガポールでの勤務が終った後、今年から中国の大学に客員教授として行く話があった。これは私の知り合いの中国の杭州の大学の先生からのさそいである。彼が大学にメディア関係の研究所を作るので、年6ヶ月ほど杭州に滞在してその立ち上げを手伝ってほしいと言う話である。その先生の関係で杭州は何度も訪問している。杭州は風光明媚な西湖がある事で有名な都市である。何度も訪問して馴染みになった街なので、滞在するにも抵抗が少ない。ということで、私自身は昨年暮れ迄はすっかり今年からは中国に住むという気になっていた。

ところが、昨年の秋頃迄は頻繁に来ていたメールが、10月頃を境にぱったりと来なくなった。こちらからメールを送っても返事が返って来ない。なぜだろうかと考えていたのであるが、昨年来の中国と日本の間の政治的な関係の悪化が影響をしているのではないだろうかと考えるようになった。もっとも現在でも、私たち日本人が観光で中国を訪れる分には全く何の影響もない。同様に中国から日本へ来る観光客も、一時は影響があったようであるが、最近では再び回復基調にあるとのことである。その証拠に京都の祗園などでは日本語の次ぐらいに中国語が飛び交っている。

しかしながら、公務となると話は別なのかもしれない。大学で客員教授を雇うとなると、大学の上層部まで話を上げて行く必要がある。大学の上層部は中国政府との関係も深いので、私を雇う話がそこで引っかかっているのではないだろうか。そして当の私の知り合いの大学の先生も、そのような状況をメールで説明する訳にもいかないので(説明すると大学から睨まれるので)、だんまりを決め込んでいるのではないだろうか。

もちろんこれは私の勘ぐりに過ぎないのだけれども、公的な事は中国政府の政策と密接に関連している中国の状況を見ていると、どうもありそうな話ではないかという気がして来る。中国と日本の政治関係の悪化が私に直接関係するとは思わなかったが、世の中というものはそういうものだろう。

ということで、中国に行く話は当面なさそうである。もちろん中国と日本との政治的関係が良好な方向に向かえば、またこの話が再開する事もあるとは思うが、少なくとも今年は無いのではないだろうか。さてそれでは私自身はどうしたものだろうか。と考えていた所、ひょんなことから東京に会社を設立してビジネスをしようという話が出てきた。

(続き)