シンガポール通信−ジョゼフ・ニーダム「中国の科学と文明」2

ジョゼフ・ニーダム「中国の科学と文明」では、西暦1500年頃までは中国の科学技術が西洋のそれに対して優位にあったことが述べられている事を述べた。しかし「中国の科学と文明」は、日本語訳が全11巻とともかくも大部であり、とても短時間に全体を読み通す事は出来ない。私がここ数日で読んだのはその第一巻「序論」だけである。

そこで述べられているのは、多くの科学技術的発明が西洋に比較して中国で早く行われ、その後西洋に伝搬したという全体論である。多分これ以降の巻では、科学技術の各分野において西洋と中国の科学技術の発展史の比較が詳細に述べられているものと思われる。

そこでは、なぜ1500年以降中国の科学技術の発展が停滞し、西洋に追い抜かれると共に、その後西洋で産業革命が生じる事によって、決定的に西洋の中国に対する優位性が決まってしまったのかという事が述べられているのであろうか。どうもそうではないような気がする。

それはその理由が、単純な単一の理由によるものではないからではないだろうか。「中国の科学と文明」の第一巻でも、その理由が遠回しではあるが述べられてはいる。それは、中国の歴史の各段階で現れた国家が、いずれもきわめて中央集権的であったことが、自由な技術の発展の妨げになったのであろうという理由付けである。なるほどそのような理由も解らなくはない。

しかし中国では、中央集権的な統一国家とそれが崩壊した後の権力の分立した混乱期が、歴史の古い時代から交互に生じている。もし中央集権的な統一国家が科学技術の発展の妨げになるのであれば、歴史の古い時代から中国の国家体制はそのようなあり方であったのであるから、科学技術の発展は古くから中国では生じにくかったといえるのではないだろうか。したがって中国の国家が中央集権的な体制であったという事実は、なぜ1500年以降になって中国における科学技術の進歩に停滞が顕著に見られるようになったのかという事に対する明快な理由付けにはなっていないのではないだろうか。

という事で私もこれから勉強しようというわけであり、現時点ではとても私なりの理由を列挙できる段階ではないのであるが、憶測も含めて幾つか理由になりそうなものを挙げておこう。

1. 中国の統一国家が極めて中央集権的であったこと

これは先にこれだけが理由ではないだろうと否定はしたけれども、大きな理由の一つである事はまちがいないだろう。皇帝をトップとし宦官に代表される文官が大きな権力を持ち、トップダウンの政策を執行しそれが人々の生活の細かな所まで縛ったというのが中国的中央集権である。このような場合には、政府の方針が科学技術の発展に好都合なものであれば、科学技術は急速に発展するが、それに反するものである場合は科学技術の発展が停滞する。

このいい例が15世紀の初め明の始めの時代に、皇帝の命令により鄭和によって大艦隊による南海大遠征が行われた事である。これはヨーロッパにおける大航海時代の始まりとほぼ時を同じくしているが、鄭和の艦隊の船の大きさがコロンブスやマゼランの船の数十倍の大きさであった事など、鄭和の南海大遠征の規模はヨーロッパの大航海時代の遠征の規模を大きく上回っていたのである。ところが突然明の政策の変更により南海大遠征は中断されそれ以降はいわゆる海禁政策が取られ民間人が船で航海を行う事は厳しく制限された。このためそれ以降の中国の造船技術、航海技術は停滞もしくは後退したのである。

ではなぜそのような科学技術の発展に障害となるような政策が取られたのか。これは多分これ以降で述べる理由と深く関わっているのだろう。

2. 儒教が人々の行動原理を定める規範となっている事

中国では孔子を始祖とする儒教が人々の考え方や行動の仕方の基本となって来た。儒教の基本的な論理は、個人の利益を優先するのではなく集団、具体的には家・地域社会そして最終的には国家の利益を優先すべきという考え方である。そこでは他人との和が極めて重要視される。儒教はもちろん中国で生まれたものであるが、韓国・日本など多くのアジア諸国にも伝搬し、それらの国々の人々の行動論理を縛って来た。

科学技術の基本となる独創性・先進性はやはり個人主義との相性がいい。他人との和を重要視する文化の中では新しい発明が生まれにくいというのは確かに解りやすい説明となる。しかしそれを重要視するならば、中国発の技術的発明の多くは孔子以降に行われたものであるから、なぜこれらの技術的発明が儒教が確立した後に行われたのかということを説明できない。したがってこれだけでも十分な説明にはならない。

(続く)