シンガポール通信−イアン・モリス「人類5万年 文明の興亡」4

それでは、イアン・モリスが「人類5万年 文明の興亡」で述べている事をごくごくかいつまんでまとめてみよう。前にも書いたように、彼は「社会発展指数」という定量的指数を持ち込むことによって、西洋と東洋の社会の発展の程度を直接比較する事を紀元前14000年前から現在に至るまで行なおうという試みをしている。

西洋と東洋の比較を論じる研究者は二つの派に分かれる。一つの派は「長期固定」理論派と呼ばれる。長期固定理論派の研究者は、西洋での最初の文明の発祥(チグリス・ユーフラテス川流域)が紀元前9500年前であったのに対し、東洋における最初の文明の発祥(黄河、長江流域)が7500万年前であったことに重要性をおく。この文明の発祥における2000年の差が、その後の西洋と東洋の文明の発達の差に大きな影響を与えており、それが現在まで続いており、現在の西洋の東洋に対する優位につながっていると主張している。

これに対しもう一つの派は「短期偶発」理論派と呼ばれ、現在の西洋の東洋に対する優位性は過去数百年の出来事によって決まったと主張している。特に18世紀半ばから19世紀半ばにイギリスでおこった産業革命がその後の西洋の東洋に対する優位性を決定付けたと主張している。この派の主張が短期偶発理論と呼ばれるのは、産業革命が西洋で起こり問うようでおこらなかったのは、必然ではなくて単に幾つかの要因が重なったからであると主張する事による。例えばイギリスで始まった産業革命がその後の世界を大きく変えたのは、イギリスで炭田が発見され、樹木を伐採する事なく効率的に蒸気エンジンを動かす手段が見つかったからであるというのが彼等の主張の一つである。

これらの派の一方が歴史をさかのぼる遠い昔の出来事だけを論じ、これに対するもう一方は高々最近の数百年だけを論じている。それに対して本著では紀元前14000年前から現在までを一貫して論じている。紀元前14000年前というのは、約5万年苗にアフリカを出た現在の世界中の人類の共通の祖先が全世界への移住を終え、世界各地で文明を発展される事を開始した時期である。このように、遠い昔から現代まで一貫して西洋と東洋を比較しようというのは、確かに斬新な試みであろう。

さてそれでは社会発展指数を使った紀元前14000年から現在までの西洋と東洋の比較を見てみよう。図1に本著から引用したこの期間の西洋と東洋の比較を社会発展指数のグラフによって示したものをあげる。ただし最近の社会発展指数の増加が大幅であるため、昔の社会発展指数を注意深く見るために、縦軸は対数軸になっている。また、紀元1000年前後から1900年までに焦点を当てた図を図2に示す。
図1からわかるのは、紀元前14000年から紀元前後までは一貫して西洋が東洋に対して優位にある事である。これはある意味で長期固定理論派の主張を裏付けるものになっている。同時に興味深いのは紀元後のある期間には西洋に対して東洋が優位にあった時期がある事である。



図1 紀元前14000年から現在までの西洋と東洋の社会発展指数の比較



図2 同様に1000年から1900年までの部分の詳細図


そして図2を見ると分かるのは、西洋は紀元前後に一つのピークに達して東洋に大きな差をつけると共に、それ以降は衰退を始めている事である。そして紀元500年代に西洋と東洋の社会発展指数が交差し、それ以降は東洋が西洋に対して優位を占めるようになる。

紀元前後の西洋のピークと言うのは、明らかにローマ帝国の最盛期に相当している。最盛期のローマの人口は100万人に達していたといわれており、西洋の一つのピークに相当するのだろう。そしてローマ帝国が衰退するに伴い西洋の優位性は失われ、西ローマ帝国が紀元476年に滅亡してしばらくしてから、西洋は東洋に追い抜かれ東洋優位の時代になるのである。

それに対して東洋では、中国が国家として統一されるに伴い社会発展指数が増加し、宋の時代1100年〜1200年頃にピークに達する。この頃の宋の首都開封の人口が、ローマの最盛期と同様の約100万であったというのも興味深い。その後中国では支配国家が元となるに伴い、社会発展指数は減少を始める。それに対して西洋は1500年頃から急激に社会発展指数が増加を始め、1700年代後半に西洋が再び東洋を抜いて、西洋優位の時代になりそれが現在まで続いているのである。

(続く)