シンガポール通信−イアン・モリス「人類5万年 文明の興亡」3

タイの政治情勢を論じていたので、イアン・モリスのこの本の事を書くのが中断していた。もっとも、筑摩書房から出ているこの本の日本語訳が上下本合わせて約800ページと大部で内容も多岐にわたっているので、なかなか感想を短くまとめるのは困難である。したがってこれからも、他の話題も論じながらおりおりに感想を書いていく事としたい。

さて前回も書いたように、私は今回出版した「アジア化する世界」を書いている間に、西洋対東洋を科学技術の観点から(特にコミュニケーション技術に焦点をあてて)長い歴史の過程の中で考えて行きたいと思うようになった。それと同時にはたしてそのような観点から書かれた本がそれほどあるのだろうかとも考えていた。

というのもここ数年読んで来た西洋哲学の本では、まったく東洋というモノの見方が含まれていなかったからである。西洋の歴代の哲学者は、あくまでギリシャ時代のソクラテスプラトンに発する西洋哲学の流れの中で、自分の哲学を主張しているように思われる。そしてそれ以外の国々、特に東洋でどのような哲学思想があったかという事には、まったく興味を持っていないというのが私の持った印象であった。

さらにメディアの歴史を調べて行く過程でマーシャル・マクルーハンの「グーテンベルグの銀河系」を読んだが、ここでも西洋対東洋という観点からの見方は欠如しているように思われた。この本では、グーテンベルグの印刷術の発明が西洋人を「活字人間」にしたということ(これは私流に言うと「論理思考的な人間」になることといえる)を述べると共に、それと共に電気技術がそれをこわして先祖帰りした人間にする(これは私流に言うと「感情思考的な人間」になることということになる)可能性がある事を述べている。

これはネットワーク時代の到来を予言した本であるとしばしば言われている。これに対して私は、マクルーハンが言いたかった事は世界がアジア化しつつあるという私の著書の内容と共通する所が多いと考えている。(もっともこのように言うと、「おまえはマクルーハンの本からアイディアをもらって自分の本をかいたのだろう」と揶揄されるかもしれないが。)しかしながら、やはりマクルーハンの論調はあくまで西洋中心であって、西洋人のものの見方や考え方が、印刷技術や電気技術によってどのような影響を受けたかという範疇に止まっているように感じられる。

その意味で、イアン・モリスのこの本を本屋で見つけた時は、正に自分の探していた本に出会ったと感じた。同時に読んでみると、不遜な言い方かもしれないが私が次に書きたかったのはこのような内容ではないかという思い、いいかえると先を越されたなという思いがしたというのが正直な所である。

しかしこの本を読んで行くうちに、文化や科学技術の発展を西洋対東洋という考え方で見るというのは、すでに多くの学者が行なっており多くの著書も出されているということがわかってきた。これは私の不勉強のいたすところであって、何も知らないまま次の著書の執筆にかかっていたらと考えると、冷や汗が出てくる思いである。

特に科学技術の分野においてなぜ西洋が東洋に対して優位にあるのかというテーマは、「ニーダム問題」として知られているという事である。これは英国の科学史家ジョセフ・ニーダム(1900年〜1995年)に基づいたものである。彼も最初は西洋の技術文明の優越性を頭から信じていたが(というより他の技術文明との比較という観点を持っていなかったが)、あるとき中国からの留学生がきてその留学生といろいろと話しているうちに、自分の西洋流のものの見方とは違う中国的な見方の存在を知る。

そしてその後は中国の科学技術の歴史を学び研究する事に力を注ぐようになる。そしてその成果は「中国の科学と文明」という大著にまとめられることとなった。この本は全7巻、30冊あまりの大著として計画され、その第1巻は1954年に発売となり大きな反響を呼んだ。その後も彼はこの本の執筆に力を注ぎ、現在までに24冊が出版されている。彼は1995年に亡くなったが、その後も彼の学生や彼を尊敬している学者たちによって編集が続けられているという事である。

このような本の存在を知らずにコミュニケーション技術という観点から西洋対東洋を論じようとしていたとはわれながら情けない。しかしながら同時に、この本の最初の出版が1954年という事は、科学技術における西洋対東洋という議論はそれほど古くはないということである。それならば西洋対東洋というのはすでに論じ尽くされたという問題ではなくて、まだまだいろいろと論じるべき点の残されているテーマではあるまいか。

(続く)