シンガポール通信−タイは遅れた民主主義国家か?:3

さらにもっと面白いのは(面白いなどと茶化してはいけないのかもしれないが)、トップにある人たちが容易に自分の利益になるような行動(自己利益誘導型の行動)をとりやすい事である。

今回の混乱のそもそもの発端は、昨年に当時政権の座にあったインラック首相恩赦法を議会に提出して通そうとした事から発している。恩赦法と言うと殊勝な法のように聞こえるが、なんのことはない兄で現在国外追放中のタクシン氏を呼び戻して、あわよくば再び権力を与えようという魂胆のもとに、議会に提出されたものだといわれている。

あまりにもあからさまな自己利益誘導型の法案なので、政権を握っているタイ貢献等が多数を占めている議会でも通らなかったため、廃案になった。このことが、政府が自己利益誘導型の政策をとっており民主主義に反するという理由で、反タクシン派が反発し大規模なデモを繰り広げることになった発端なのである。

なるほどスティープ元副首相に率いられる反タクシン派のその主張は、それを聞いているだけだと正当である。ところがその反タクシン派は今年2月2日のタイの総選挙の際に、バンコクを中心に投票を妨害するという直接行動に出た。その結果375の選挙区のうち約1割にあたる37選挙区で選挙が出来ないという異常事態になった。

このことが、憲法裁判所が3月21日に2月2日の総選挙は無効と判断するきっかけとなったのである。確かに選挙区全体の1割で投票が出来ないとなると、その選挙の正当性に疑問が付く事になるから、無効と判断する事自身は正当だろう。しかしそもそも、民主主義の基本中の基本原理である自由選挙を、反タクシン派が妨害するのをそのまま見逃すというのも、おかしな話である。

本当ならここで軍が出動して、反タクシン派の選挙妨害を止めるべきではなかったのか。しかしそのとき軍は動かなかった。軍はそもそも政府の権力下にはないので、政権を握っているタイ貢献党も軍を動かす事は出来ないという理由付けもできるだろう。また軍の立場からすると、政治的に中立の立場を取っているため、動けないという理由も立つだろう。しかし警察ならば政府の統率下にあるわけであるから、政府は警察を動員して反タクシン派の選挙妨害活動を止める事が出来たはずである。しかしそうはしなかった。

民主主義の基本中の基本である自由選挙を妨害するという、民主主義に慣れている私達力すると暴挙がなぜ行なわれたのか。だいたい反タクシン派がなぜそのような民主主義を否定する行動に出たのか。さらには政府がなぜそのような妨害活動を強制的に排除しなかったのか。また軍はなぜ静観していたのだろうか。

これらの事を総合して考えると、どうもタイの人たちは、タクシン派であろうと反タクシン派であろうと関わりなく、自由選挙という民主主義の基本概念を信じていないと考えざるを得ないのではないだろうか。ということは同じく民主主義の基本概念である多数決をも信じていないと考えざるを得ない事になる。

これはある意味で自己主張がすべてという事を意味している。「誰がなんと言おうと正しいものは正しい、選挙や多数決の論理では時には正しいものも否決されてしまう、正しいと自分が思った事は相手が政府だろうがとことん主張する」という考え方である。いわばかっての西部劇時代の米国でまかり通っていた論理であるともいえる。

敬虔な仏教徒の国であるタイの人たちがそのような考え方を基本としているのは不思議と言えば不思議である。しかし考えてみれば民主主義というのは、力で対立しがちな複数のグループ、しかも話し合いだけではなかなか解決に至らない反対し合う複数のグループを平和裏に共存させるために考えだされた、妥協の産物であると言えなくもないのではないか。いわば民主主義というのは、話し合いで解決できない場合は数の論理で決着をつけようという、単純なもしくは強引な政治的解決法なのかもしれない。

これに対するに、人々が敬虔な仏教徒であるタイでは、最終的には話し合いで解決できるという基本的な考え方が人々の心の中にあるのではないだろうか。そしてそのような基本的な理解の基に、人々は表面上勝手気ままに自己主張しているのではないだろうか。いやもっというと自分の意見を主張していてケンカになっても、どこかでお釈迦様が出て来て仲裁してくれるというような考え方が、心の底にあるのではないだろうか。

そしてそのお釈迦様の役割を今回果たしているのがタイの国軍だというといいすぎだろうか。タイ国軍のプラユット総司令官はタイの全権を掌握した後に、タイ国王にそれを報告し承認を得ている。とするとお釈迦様の役割をするのはタイ国王という事なのかもしれない。