シンガポール通信−タイは遅れた民主主義国家か?

タイでは政治情勢が混沌としている。タイでは昨年から政府支持派と反政府派の対立が続いて来て、双方による大規模なデモが行われて来ており、経済にも影響を与えて来た。これに対しプラユット陸軍司令官をトップとする国軍が、5月20日にタイ全土に戒厳令をひいた。さらに5月22日には、軍が政権を掌握したと発表した。いわゆる軍によるクーデターである。

昨年からの政府派対反政府派の対立や、それに伴うデモが連日のように繰り広げられる風景には私たちはある程度慣れきっており、ああまたかという感覚をもっていた。しかしさすがにクーデターとなると、容易な事ではないと理解できる。シンガポールでは連日トップのニュースとしてテレビなどで放映されているし、日本でもテレビや新聞で大きく報道されているようである。STAP細胞報道など吹っ飛んでしまった感がある。

シンガポールのメディアの報道、日本における新聞・テレビにおける報道や政府の反応、さらにはそれらを通して流れて来る欧米の政府の反応をウオッチしていると興味深い事に気付く。例えば手元に5月24日の日本経済新聞があるが、その社説でタイのクーデターを取り上げている。そこでの論調は、「民主主義と法の支配を損なう行動は残念だ」というものである。さらに記事でも大きく取り上げているが、そのタイトルが「クーデター19回目 民政、機能不全浮き彫り」というものである。

多分日本の他の新聞やテレビでも、同様の論調を基本として報道や解説が行われているのだろう。米国を始めヨーロッパの各国、ドイツ・フランス・イギリスも、政府がタイのクーデターを批判する声明を発表している。

これらの報道や声明の根底に流れているのは、「タイの民主主義は遅れている」という考え方ではないだろうか。これらの報道や声明の底には、「民主主義国家においては、政治は国民の選挙によって選ばれた議員が行うものであって、そこでは多数決が基本的な方法論である。軍によるクーデターなどは先進国ではおこりようのないものである。クーデターが生じるというのはタイの民主主義がまだ根付いていない事を示している。早くこのような民主主義後進国の状態を脱してもらいたいものである。」という考え方が流れていると私には感じられる。そしてそれが日本も含めた先進国の政府、メディア、識者の考え方であろう。

本当にそうだろうか。私たちは、このような画一化された民主主義国家に対する考え方を見直す必要は無いだろうか。この事はこのブログでも前に問題提起した事があるが、もう一度考えてみることにしたい。

そもそもタイの政治情勢は、かっての首相で現在は国外追放中のタクシン氏に率いられるタクシン派とそれに反対する反タクシン派の対立という構図をとってきた。タクシン派は地方の農民などの低所得者層をその支持層としており、低所得者層に手厚い施策をする事で知られて来た。これに対し反タクシン派は都市の住民を中心としており、所得は中流以上、さらには学歴なども高い知識層が多いといわれている。

なんのことはない、かって日本で自民党が農村を大票田とし地方にその基盤をおいていたのに対し、社会党などの反自民党支持者層が都市のサラリーマンなどの中級以上の所得と高学歴の知識層をその支持基盤としていたのによく似ているではないか。日本の特徴はかっての反自民支持者層が(少なくともその中核の人達は)ソ連・中国と同様の共産主義社会主義を日本の基本的な政治メカニズムとして取り入れようと考えていた事であろう。

これは大変複雑な状況であって、かってはどこに着地点を見いだせばいいのかわからなかった。しかしながら、ソ連邦の崩壊、中国の開放政策などにより共産主義社会主義というメカニズムが機能しない事が明らかになった事から、双方の歩み寄りが可能になった。そして結局は自民党も地方住民と都市住民の双方の要求をとりいれた政策を行うように変身した。

対する反自民層は一時は民主党に収斂し米国と同様の二大政党制が実現するかと思われたが、民主党のいろいろな行政上のミスもあり現在は民主党は国民からの支持は激減している。しかしそれに代わる党もいずれもぱっとせず、反自民層は混沌とした状態である。したがって実は日本の政治情勢もタイに劣らず混沌としているのである。タイのような大規模なデモが起こらないのは、そこそこの生活水準を享受できるようになった国民がデモをするほどの緊迫感を感じていないことや当面のアベノミクスの成功によるものであろう。

従って私たちはタイの状況を「遅れている」などと上から目線で見ているべきではないのである。

(続く)