シンガポール通信—イアン・モリス「人類5万年 文明の興亡」

現在2014年3月に発売されたイアン・モリスの「人類5万年 文明の興亡」を読んでいる。大変面白く知的に興奮させてくれる本である。

ここ数年、人類の歴史を数十年、数百年という短いスパンではなくて、数千年そして時には数万年という長いスパンでとらえ、それを基に現在世界で生じている事を理解しようとする本が海外でいくつか出版されている。私の知っている範囲であげてみると、以下のような本である。

ニコラス・ウェイド「5万年前」イースト・プレス(2007)
ティーブン・オッペンハイマー「人類の足跡10万年全史」草思社(2007)
ジャレド・ダイヤモンド「銃・病原菌・鉄(上・下)」草思社(2000)
ジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上・下)」草思社(2012)

これらの本はいずれも、現在の世界中の人類が約5万年前(もしくはそれ以前)にアフリカを出た約100人のグループにその源を発しており、そのグループの子孫が約1万3000年前に全世界への移住を終えたとする、最近定着しつつある学説をその基本としている。

そしてその時点から、世界各地に移住した人類の祖先が文明を築く競争を始めたという捉え方に関しても、同じような視点に立っている。ところが現在の世界では、西欧文明(もしくはそれに米国を加えた欧米文明)が圧倒的な優位性を保っている。そのことが、現在盛んに言われるグローバリゼーションが、結局は欧米の文明・文化・技術を取り入れる事を意味している事につながっているといえるのである。そしてそれがなぜ生じたのかという問いに答えようと言うのが、これらの本のうち特にジャレド・ダイヤモンドの二冊の著書であるといっていいだろう。

私は2010年に出版した「テクノロジーが変える、コミュニケーションの未来」(オーム社)で、携帯電話等の新しいメディアの出現により変化しつつあるコミュニケーションを対象として、コミュニケーションとは何かをいろいろな観点から論じてみた。そしてその事から、コミュニケーションを支えるメディア技術の歴史に興味を持つようになった。

たまたま2008年以降シンガポールで生活をしてきたため、人々のコミュニケーション行為を、日本人を対象としたものだけではなく、シンガポール人そしてシンガポールに住む多くの欧米人を対象として、彼等のコミュニケーション行為を見る機会を持つ事が出来た。

また同時に週末は有り余る自由時間があったため、これまで読む機会のなかった(というよりは難しいからとして毛嫌いして来た)哲学や日本の古典を読むことに挑戦することもできた。それらの読書を通して、人間のコミュニケーションの仕方さらにはそれを支えるコミュニケーションメディアも、単に現在生じている事ではなくて、長い歴史の中で理解しようとするべきではないかと考えるようになった。
そのような観点からこれらの本を読む事は大変私に取っては刺激的であった。特に上にも述べたように、現在世界中に住んでいる人類がまったく異なった祖先から生じているのではなくて、約5万年前にアフリカを出発した高々100人程度のグループの子孫である事を知ったのはまさに「目からうろこが落ちる」という表現がぴったりの経験であった。

従来はコミュニケーションが基本的にはごく限られた範囲の知り合いの間で行なわれて来たのに、FacebookTwitter等の新しいメディアが出現すると人々がいとも容易に距離や言語・文化の壁を乗り越えて世界中の人々とコミュニケーションを行なうようになった事に対し、なぜそうなのだろうという疑問を私はずっと持っていた。

同様にスマートフォンの普及に伴って、なぜ人々がバスや地下鉄の車内で、食事をしながら、そして歩きながら、ある意味で所かまわずコミュニケーションに熱中するようになったのかというのも私にとっては大きな疑問であった。

現在の世界中に住んでいる人々が、かってはアフリカから出発したたかだか100人のグループの子孫だと考えると、これらの疑問に対する答えが得られる。世界中に住んでいる人々は、いわば大昔には同じグループに属していた仲間なのである。それらの人々が世界中に散らばって住む事によって、かっての仲間たちとのコミュニケーションを行なう事は困難になった。

それが5万年の時を経て新しいメディア技術が、かっての仲間たちとの親密なコミュニケーションを可能にしてくれたのである。数千キロ、数万キロという距離を隔てているかっての仲間たちと再びコミュニケーションが出来るようになった状況を想像してほしい。そしてTwitterFacebookがこれを可能にしてくれるようになったのである。人々が時間や場所をかまわず仲間とのコミュニケーションに夢中になっても不思議ではないでなないか。

(続く)