シンガポール通信−スマートフォンのガラケーに対する優位性は何だろう2

前回iPhoneに代表されるスマートフォンが従来型携帯(いわゆるガラケー)と決定的に異なるのはインターネットへの接続機能やメールの読み書きの機能ではなくて(これらに関しては、両者は基本的には機能は同じである)、スマートフォンが取り入れているタッチインタフェースにある事を指摘した。

タッチインタフェースには一本指による画面へのタッチに基づくものと二本指による画面へのタッチに基づくものがある。そのうち従来のインタフェースに無かった新しいインタフェースとして喧伝されるのは二本指を使ったインタフェースである。しかしながら私は、一本指を使ったインタフェースであるタップやスワイプの使いやすさと新規性、さらにはそれを使っている様を第三者から見た場合にスマートさや知性を感じさせる点にこそ、タッチインタフェースが従来の携帯が持つインタフェースに決定的な差をつける原因があったと思っている。

もちろん二本指を使って画面がズームアップしたりズームインしたりする機能(ピンチイン/アウト)なども確かに新しい機能ではあるが、それが使われる場面は限定されている。とするとやはりタップやスワイプの機能こそがタッチインタフェースの最大の機能ではないだろうか。そして再度言うが、従来のキーによる入力とこれらのタッチインタフェースは機能的には異なるものはではない。ところが、使ってみるとその使いやすさが従来のキー入力と決定的に異なる。さらにはこれも決定的に重要な事だと思うが、使っている本人だけでなく第三者が見ているとその入力動作が、上に述べたように何とも知的でエレガントに見えるのである。

とするなら、スマートフォンが持つ力は新しい機能を提供できたか否かという点にあるのではなくて、これこそがデザインが持つ力ではあるまいか。そして多くの新規なデザインがそうであるように、これは事前に言葉で説明できるものではないのではないかと思わせる。実際に開発してみてそして実際に使ってみて始めてその使いやすさに気付くものではないだろうか。

そして重要な事は、優れたデザインが持っている力というのは、使っている際により便利だというような機能の新規性の点からではなくて、こちらの感性に合致しておりその結果として私たちに満足感を与えてくれるか否かという点で評価されるということである。そして同様に重要な事は、使っている人に満足を与えるだけではなくて、側で見ている人にもスマートフォンを操作している動作そのものが何とも知的でスマートな操作をしている感覚を与えるということである。

つまりiPhoneに代表されるスマートフォンは、技術的な意味での新規性によって人々に受け入れられているのではなくて、インタフェースデザインの新規性によって人々に受け入れられているのである。このスマートフォンに取り入れられているタッチインタフェースは直感的インタフェースといわれることが多い。その使い方が私たちの直感に合致したインタフェースだというわけである。ところがこれには多くの反論がある。それらの反論は、以下のようなものである。

「直感的というのは、既にこれまで私たちが使い慣れているやり方に合致しているか否かという意味で使われるべきである。しかしながらスマートフォンに取り入れられているタッチインタフェースで用いられている操作法は、これまでの私たちの日常生活で用いられていない操作の仕方である。それを直感的というのはおかしい。」

たしかに特に二本指の感覚を広げたり狭めたりする事によりズームイン・ズームアウトを実現する操作法などは、私たちの日常生活で他にそのような操作をする事はない。それではこれらを直感的操作・直感的インタフェースという事は間違っているのだろうか。

私はそうは思わない。私たちの日常生活で用いられている操作は狭義の直感的操作と読んでいいであろう。しかしここでいう直感的操作というのは、私たちの日常生活でそのような操作法を行っているか否かというような狭い意味で用いられているのではない。狭義の直感的操作に対して広義の直感的操作というのが存在すると考えられる。広義の直感的操作とは何か。

それは、現時点では実現されていなくても、私たちが本来持っている感覚や感性に合致している操作法のことである。それは別の言い方をすると、私たちの体の奥底に眠っておりまだ呼び覚まされていない、生物としての本性に基づいた感覚だと言ってもいいだろう。

まだ呼び覚まされていない生物としての本性に基づいた感覚を、どうして知る事が出来るのかという反論をうけるだろう。それは確かにその通りである。これは実現してそしてそれを使ってみて始めて解る事ではあるまいか。

(続く)