シンガポール通信−「アジア化する世界」が出版されました!−3

この本を出版してから知り合いなどからよく聞かれるのは「シンガポールに住んで居る事が『世界のアジア化』という考え方が生まれるのに貢献しましたか」という質問である。答えは「イエス」でもあり「ノー」でもある。

前著「テクノロジーが変える、コミュニケーションの未来」(オーム社)では、コミュニケーションというものをコミュニケーションとは何か、コミュニケーションと技術や社会との関係など、いろいろな面から分析するという事を行った。そこでは西洋対東洋という考え方が基本にあった訳ではないが、読み返してみると「テクノロジーが・・・」の中ですでに、携帯電話の使用などにおけるコミュニケーション行為において、海外の人達の行為が日本人の行為に似て来ているという基本的な考え方は生まれている。その意味では答えは「ノー」である。

しかしながらそこでは、あくまで日本以外の国の人達のコミュニケーション行為、特に携帯電話を使ったコミュニケーション行為が日本人のそれに似て来たという考え方が基本であり、その意味では日本対それ以外の国という枠にとどまっていたと自分では思っている。

シンガポールに来てもっとも感心したというか気がついた事は、シンガポールの人たちの行動様式が日本人のそれに極めて似ている事である。もちろん日本人のような細やかな感受性というのとは違い、もう少しおおざっぱな考え方や行動様式なのではある。とはいいながら、シンガポール人やまたマレーシア・インドネシアなど近隣の国々から来ている人達の行動を見ていると、自分の意見は人前ではあまり主張しないという日本人的なところが見いだされたりする。そしてその結果、やはりここはアジアであり、日本もアジアの一員なのだなと納得させられる場面が私にとって多々あった。

ということは、前著では日本対それ以外の国々という考え方にとどまっていた考えが、今回の「アジア化する世界」ではいわば東洋対西洋という考え方に広がったということができる。このことは、シンガポールに住む事になったことが私の考え方を広げてくれるきっかけとなったことを意味している訳で、その意味では答えは「イエス」になる。

シンガポールに住んでいると週末は閑だし、暑いのでスーパーに買い物に行くなど必要最小限の行動を別にするととても屋外に出る気にはならない。したがって週末は冷房の効いた自宅の室内で過ごす事が多くなる。さて過ごし方をどうしたものかという事になるのであるが、結局は私の従来からの趣味であった読書で時間を過ごすという事が多かった。シンガポールに住んでいるのであるから、英語の著作を読めばいいのであるけれども、普段使っている英語に週末も悩まされるというのは疲れる事もあって、結局は日本語の本を読むということになった。

本は、シンガポール紀伊国屋で購入したり帰国した際に日本の本屋で購入したりという事で手に入れた。また本の種類は、持ち運びに便利なサイズという事で文庫本、それも学生時代に読む事の多かった岩波文庫を購入する事が多かった。異国シンガポールの地で、週末Tシャツに短パンという格好でソファやベッドに寝転がって岩波文庫を読みふけっている日本人というのは、少々不思議な(もしくは不気味な?)図であったかと思うが、ともかくもシンガポールに移ってから5、6年をかけて岩波文庫を読む行為にチャレンジした訳である。

学生時代に岩波文庫の海外文学はかなり読破した事もあって、今回は日本や中国の古典文学や西洋・東洋の古典哲学書を読書の対象ジャンルとして選んだ。古典文学はともかく哲学にまったく縁のなかった私が哲学書を読めるものかと不安であったが、プラトンを代表とするギリシャ哲学、孔子老子荘子を代表とする中国哲学は大変楽しく読む事が出来た。

この読書を通して気がついた事の一つは、これまで全く別のものと思っていたギリシャ哲学、特にそれを代表するプラトンの著作と、東洋哲学を代表する孔子の書の考え方の間に多くの共通性がある事である。そしてそのことは東洋対西洋という観点から人間の考えかた、行為の移り変わりを考えてみるということにつながり、それが結局は欧米人のコミュニケーション行為が東洋人のそれに似通ってきつつあるという考え方を生み、「アジア化する世界」という本著の内容につながったのである。

その具体的な内容に関しては、ぜひこの本を読んで頂きたいと思う。と同時に私はこの本をまとめて行く段階でますます西洋と東洋の比較検討という考え方に興味を持つようになってきた。特に紀元前5世紀〜4世紀のペルシャ戦争、ペロポネソス戦争時代のギリシャと紀元前5世紀〜3世紀の戦国時代の中国は歴史的にも哲学的にも大変良く似通っている。

それが現在では、東洋と西洋は大きく異なる文化圏に属していると見られている。そしてこの見方の根底には、西洋(もしくは欧米)が東洋に比較して科学技術の面でさらには文化の面で大きく優れているという見方が存在している。そしてそのことが、よく言われるグローバリゼーションの意味するところが、具体的には欧米の技術・文化を積極的に取り入れるべきであるという考え方につながっているのである。しかしなぜ西洋と東洋ではそのような大きな差がついたのであろう。