シンガポール通信−「アジア化する世界」3

前回、タイにおける反政府派による選挙妨害活動について触れた。民主主義(ここでは議会制民主主義)の基本原則は、自由選挙とそれによって選ばれた議員による自由討論と多数決による決定である。選挙の妨害活動というのは、この民主主義の基本原則である自由選挙と多数決を否定することになる。

都市部で多数派である反政府派に対し、農村部では政府支持派が多数を占めているので、選挙が行なわれれば現政府が主導権を握り続ける事が予想されると言われている。したがって反政府派が選挙を妨害するのは、現在のまま選挙が行なわれてもそれは正当な選挙とはいえないという理論によるものであろう。

このような論理とそれに基づく行動は、長い時間をかけて民主主義というものを確立してきた西欧諸国からするとまったく理解に苦しむ論理と行動ではあるまいか。自由選挙と多数決の原則に対する反対運動は、民主主義そのものに対する叛旗であるというのが西欧的考え方というものである。

したがって、西欧諸国のタイで起こっている事態に対する反応は、タイはまだ後進国であるというものだろう。タイではまだ民主主義の原則が確立されておらず、タイで本当の民主主義が育つにはまだ時間がかかるという論調が、海外のメディアのこの件に関する報道に多く見られるのはそのためだろう。

しかしここで私達は、本当にそうだろうかと考える必要があるのではないだろうか。タイは決して未開発国ではない。日本同様に長い歴史と豊かな文化を持った国である。しかも敬虔な仏教国であり、人々は笑顔を絶やさず合掌式の挨拶をする。人々が道理というものを知らない未開発国ではないのである。

その国で西欧式の民主主義の基本原則が当たり前のように破られ、それに対して政府も抗議はするものの何もする事は出来ない。大きな力を持っている軍隊も事態を静観しており、政府と反政府派との対話を促すという行動に出ているだけである。

西欧諸国ならば、このような事態が生じれば、当然国民からの大きな反発が生じるだろう。そして政府は軍隊の出動を要請し強制的に反政府派の行動を押さえ込み、予定通りの選挙の実施を行なおうとするだろう。そして国民もそれを当然と考えるだろう。

ところが、タイではそのような事態は生じていない。これはタイが遅れているというより、タイにおいては自由選挙と多数決という西欧的民主主義の基本原則が、あまり重んじられていないと考えた方が良いのではないだろうか。

実は、西欧式の民主主義が行なわれていない国はアジアには多い。例えばシンガポールもそうである。シンガポールは形式上は民主主義国家であり、自由選挙と選ばれた議員の自由な討論と多数決の論理がそれを支えていることになっている。しかし現実には、議会の大半は与党の議員によって占められ、野党議員は全議員の約1割と申しわけ程度である。

したがって政府が大きな権力を持っており、政策の決定・実行はすべて政府の一存でなされている。政府に対する反対や非難に対しては強い制裁が加えられる。独裁国家と変らないとか、「明るい北朝鮮」などと揶揄する人もいる。したがって、西欧の民主主義の考え方からすると、これは民主主義国家ではないことになる。

しかしである。この「明るい」というのは大きな意味を持っている。確かに街を行き交う人々の顔は明るく、独裁主義国家にあるように何かにおびえているような態度は見られない。人々は政府のトップダウンの物事の進め方を時には窮屈に思うものの、政府がシンガポールの経済を発展させ人々の暮らしを向上させる事を信じている。これが「明るさ」につながるのだろう。

なぜこのような国家が存在するのかというのは西欧的考え方からすると謎かもしれない。しかしシンガポールを国家として考えるのではなく企業として考えると、すべての謎はとける。つまり、シンガポールは国家というより良く言われるように「シンガポール株式会社」であり、国民はその会社の従業員なのである。

会社の目的は経済的利益と規模の拡大を追求し、そしてその結果として会社の従業員に給与という形で報いることにある。もちろんそのためには会社の従業員に反会社的行動をとってもらっては困るので、そのような従業員は窓際にするか辞めてもらう事になる。そしてもちろん会社の社員には言論の自由がある。それは反社会的行動につながらない限りというものではあるが。

このようにシンガポールを会社として理解すると、そこで行なわれている事がごくごく自然であることに私達は気付くのではあるまいか。このような会社的国家というのもアジアの国家のあり方の一つなのである。

(続く)