シンガポール通信—ジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」再読2

ジャレド・ダイヤモンドの「文明崩壊」を紹介しながら、イースター島の話をするつもりで前回少し書いたが、その後一週間ほど間が空いてしまった。

実はその間に、シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズにあるアートサイエンスミュージアムの外壁を使って、私のパートナーの土佐尚子のビデオアート作品をプロジェクションマッピングする話が進んだために、そちらの方に時間を取られていた。

プロジェクションマッピングというのは、通常映像を投影するのは平面状のスクリーンであるが、プロジェクションマッピングの場合はでこぼこのある表面や曲面状の表面に映像を投影する技術である。具体的には、それらの表面の3次元モデルをあらかじめ取り込んでおき、投影すべき映像をその3次元モデルを使って事前に逆変換しておくわけである。そうすると表面に投影した場合に、平面に投影されたかのように美しく投影される。

プロジェクションマッピングはこれまでもいろいろな場所で実施されて来たが、最近NHKが主体となって東京駅を使って大がかりなプロジェクションマッピングを行なった事で大変話題になった。土佐尚子の作品のプロジェクションマッピングは、今週の1月16日から19日までという大変慌ただしい予定で実施されるが、まあその顛末に関しては別に報告する事にしよう。

さて、イースター島の話題に話を戻そう。絶海の孤島であるイースター島になぜ進んだ文明の証である多くの巨大なモアイ像があるのか、そして多くのモアイ像が作られている途中の段階で、そしてまた設置場所に移動の途中でなぜ打ち捨てられているのかというのがこれまで長い間の学者も含めて人々の間の謎であったという事を前回述べた。

その点に関してジャレド・ダイヤモンドは、「文明崩壊」で実に明快な理由付けを行なっている。放射性炭素年代測定等の新しい科学的手法が考古学に取り入れられる事によって、イースター島の歴史はかなり明確になってきた。それによるとイースター島で起こった事は以下のような事である。

イースター島に人間が移住したのは比較的新しく西暦900年もしくはそれ以前である。これらの人々はフィリピンからニューギニアを経て太平洋の東南部の多くのポリネシア諸島に移住して行ったポリネシア人の一部である。イースター島はこれらのポリネシア諸島の最も東に位置しており、ポリネシア人が移住して行ったその最果ての島という事が出来る。

イースター島ポリネシア諸島の他の島々から隔離されており(最も近いポリネシア諸島の島から2000キロ以上離れている)、他の島々との交流がなかったため、当初持ち込んだポリネシアの文明をその後独自に進化させることとなった。

イースター島には当初亜熱帯性の樹林が島全体を覆っていた。移住して来たポリネシア人たちは、この樹木を切り倒す事により、住むための家を建てたり、また漁業のためのカヌー等を作るのに活用した。そしてまた樹木を切り倒した後の土地をトウモロコシ等の穀物を栽培する農地として活用した。
樹木が潤沢に得られる限りはこの循環は極めてうまく進み、人口が増えそして文明の進化に必然とでも言うべき首長と平民からなる階級社会へと進化した。イースター島全体は11もしくは12の領地に区分されていると共に、その個々の領地の首長全体を統治する島全体の統治者がいたと推定されている。

なぜモアイ像作りが始まったか、これは大きな謎の一つである。これに関しては、人々が生存するだけの段階を脱してある程度の余裕ができた時、いわば文明がある段階に来た時に、大がかりな建築・モニュメント・墳墓などを作ろうと考えるのは人類という種に共通の傾向と考えるべきだろうというのがジャレド・ダイヤモンドの考えのようであり、私も賛成である。人々はある程度生活に余裕が出てくると自分たちが生きていた証を残そうと考えるのであろう。

つまり、エジプトのピラミッド、中国の巨大な城郭や長城、ナスカの地上絵などと同じたぐいのものであり、それがイースター島ではモアイ像だったというわけである。モアイ像作りは1100年頃から始まり徐々にその最盛期へと移り、そして1600年代のある段階で突如中断される。この突然の中断も大きな謎であった。

これに対してもジャレド・ダイヤモンドが考えているのは、島全体を覆っていた樹木をすべて切り倒した時期と深い関係があるのではということである。島全体を覆っていた樹木は、それが存在する限り人々に家やカヌーの製造原料を与え、そしてそれを切り倒した跡地は農地として活用できた。

しかし、温暖なポリネシアの他の島々に比較して雨量の少ない乾燥気候にあるイースター島では、樹木を切り倒してしまうとその再生には極めて長い時間がかかる。そして樹木が存在する事によって守られていた土地の表土が風等で吹き飛ばされてしまい、農地も農業に適した場所ではなくなった。つまり樹木を切り倒す事によって、家やカヌーの原材料が枯渇し、漁が困難になり、さらには農業によって得られる穀物の量も急激に減少するという、突然のクライシスが島を襲ったのである。

その結果として島全体の統一機構がこわれ、生存のための農地等を巡って島の11もしくは12の氏族間の大きな争いが生じたのだろう。そしてその事が、モアイ像の制作の突然の中止に結びつくのだろうというわけである。この大きな争いの後、イースター島の文明は急激に衰退し、モアイ像だけが文明の証であって住民はかっての原始的な生活に逆もどりしてしまったというのが、イースター島で起こった事に関するジャレド・ダイヤモンドの仮説なのである。

これは極めて説得力のある仮説ではあるまいか。ジャレド・ダイヤモンドは、これと同じ事がこれまでの世界の歴史の中で数多く生じたと共に、そしてこれからも生じる可能性が大きという警鐘を私達に与えているのである。