シンガポール通信−ジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」再読

あけましておめでとうございます。

現在日本に正月休みで帰国中。正月前後の新聞を見ると、アベノミクスのお陰で日本の経済は一時の沈滞ムードから復帰しつつあるようである。また2020年の東京オリンピック招致も明るい話題の一つである。しかしながら東北大震災からの復興の歩みは遅く、特に福島原発問題の対策は遅々として進んでいないようである。その意味では、前回の1960年代の東京オリンピックの時のような単純な明るさが日本を包んでいるのではなくて、明るさと同時に未来に対する見通しの不明確さも同居しているというのが、日本全体の雰囲気ではあるまいか。

また、2020年に東京オリンピックがあるとはいえ、一方でそれまでに東海沖で大きな地震が起こる可能性もある。東京・大阪を含め東海地域の多くの都市において、ここ数十年以内にマグニチュード8クラスの地震が起こる確率が30%ないしはそれ以上あり、一旦地震が起これば東京や大阪などの大都会では死者数万人が予測されるとのことである。

自然災害がほとんどないシンガポールの人々から見ると、数十年以内に大地震がほぼ確実に襲うような場所になぜ人が住んでいるのか理解に苦しむというのが一般的な意見だろう。そういえば私たち日本人は、上のような地震やそれに伴う被害の予測を新聞で見てもあまり騒がない。これもまた考えてみれば不思議な話である。

数十年以内に大地震が起こり、数万人の死者が出る可能性が大きいという予測がマスコミを通して流れたら、シンガポールのような自然災害に慣れていない国では、政府に対する暴動が起こっても不思議ではない。日本でそれが起こらないというのは、大地震は天災であるから政府を非難するだけでは解決しない、結局最後は自分自身で自分の身を守るしかないという一種の諦念がその底にあるのだろう。

そしてそれが日本独自の感受性・感性につながっており、さらには能・歌舞伎などの日本の芸術・芸能やコミック・アニメなどのCool Japanと呼ばれるものにつながっているのだろう。自然災害と同居しなければならないという自然環境が一方で優れた文化を生み出す事になっているというのはある意味歴史の皮肉である。

ともかくも少なくとも日本の文明は頻繁に起こる自然災害を乗り越えて数千年を生き延びて来た。しかし将来にわたって日本の文明は生き延びられるのだろうか。この点に関する不明確さが、上に述べたように元旦前後の新聞の記事に見られる、楽観と将来に対する不安の入り交じった現在の日本の雰囲気につながっていると思われる。

その意味ではジャレド・ダイヤモンドの「文明崩壊」に書かれている内容は、将来の日本の進むべき道に対する一つの警鐘であると読み取る事が出来る。この本では、人間の文明はそれを取り囲む自然環境とある種のバランスをとりながら発達して来たものであり、そのバランスが崩れると、優れた文明も比較的簡単に崩壊してしまうという事を多くの例を示しながら述べている。現在の日本やその他の世界の優れた文明にも同じ事が生じうるというのが、著者が私たちに訴えたい警鐘なのであろう。

これまで数回にわたってこの本の内容を紹介して来たが、年も変わったので「ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』再読」と題して引き続きこの本の紹介をしたい。この本では現代の文明と過去の文明を対比しながら、何が文明の崩壊に導くのかというテーマについて書いてある。

まず最初に現代の文明の代表として、現在の米国モンタナ州がとりあげられている。美しい森林地帯に恵まれた風光明媚なモンタナ州の自然環境が、実は長い時間をかけて作られたものであり、その自然環境は一度破壊されるとなかなか回復しないという脆弱性を持っている事が述べられている。そして人間の文明が入ってくる事によって自然環境破壊が進行しており、その意味でモンタナ州の未来は不確実である事が述べられている。

そしてそれに続いて取り上げられている、過去に栄えそして滅んだ文明の例はイースター島である。イースター島はモアイ像で良く知られている島である。イースター島南アメリカ大陸から3千600キロ、西のポリネシアの最も近い島々から2千100キロ離れた、絶海の孤島である。

このような島で高度な文明の証とでも言うべき巨大なモアイ像がいつどのようにして作られたかは大きな謎であった。そしてそれ以上に大きな謎は、石切り場で作られている途中の多くのモアイ像、そして運搬途中の多くのモアイ像を残したままモアイ像作りが急に途絶してしまった事である。これに関しては多くの仮説が立てられ、中には宇宙人がモアイ像を造ったのだという説まである。

私自身もかなり前であるがチリの学会の出席の合間を縫ってイースター島を訪問した事がある。モアイ像が切り出された採石場であるラノ・ララクに立つと、この本のジャレド・ダイヤモンドと同様に確かに不気味な感じに襲われたものである。種々の制作段階のまま打ち捨てられている多くのモアイ像がそのような感覚を与えるのである。

(続く)