シンガポール通信−カンヌ映画祭カメラ・ドール受賞作品:ILO ILO(イロイロ)2

カンヌ映画祭でカメラ・ドール賞(最優秀新人監督賞)を受賞したシンガポールの映画監督アンソニー・チェンの映画ILO ILOで、主人公のジャールーを演じる少年の演技が大変自然であり、かつジャールーと徐々に心が通じ合うメイドであるテレサを演じる俳優アンジェリ・バヤニの演技も、少年の演技を助けながら大変自然な演技をしている事を述べた。

しかし同時に、ジャールーの両親を演じている二人の演技力も見逃せない。父親役および母親役を演じる二人は、多分プロの俳優ではないと思われる。(大体シンガポールにプロの映画俳優というのが存在するかどうか怪しいが。)素人であると思われるが故に、二人ともそれほど激しい感情表現は行わない。というより上手く出来ないのかもしれない。

しかし監督はそれを逆手にとって、二人にあまり感情表現をせずどちらかというと無表情なまま演技をする事を求めているようである。ところがこの無表情の二人の演技が何ともいえずいいのである。特に母親役がいい。

息子ジャールーに宿題をするよううるさくいう際、ジャールーが小学校で友達をけんかで傷つけるなど問題を起こして呼び出しを食らった時に息子を見る際、そしてジャールーとテレサのやり取りを見守る際などに、母親の顔の短いショットが映し出される。いずれも無表情な顔であり、何を考えているか分からない顔のようにも見えるが、彼女の行動と一緒に合わせて考えると、そこには息子やテレサに対する愛情が感じられる。

そしてまた父親の演技もいい。真面目ではあるが不器用なためにセールスの仕事を首になり、さらにその次の倉庫の守衛の仕事もへまをして首になる典型的な中年の男性である。しかし、不器用ななりに一生懸命家族のために生きている様子が、そのあまり感情の表れない表情から感じとる事が出来る。そこには彼の家族に対する愛情を感じ取る事が出来る。

今愛情と言ったが、ジャールーの父親や母親が家族に対して感じているのは、愛情というよりはそれを越えたもの、言ってみれば家族の絆とでもいったらいいだろうか、極めてアジア的なもののような気がする。

会社を首になりかつ投資で数百万円も損をした夫に対しては、欧米であれば当然離婚などが問題になるだろう。しかし母親の方はそのような父親に対してもちろん小言は言うけれども、決して離婚などと言う考えには至らない。家族を構成している他のメンバーとは家族という絆でつながれており、家族のメンバーの行いの全ては受け入れるというのがその基本的な考え方であろう。

もちろんこのような家族の絆というのはアジア的であり、アジア人である私たちに分かりやすいものであるが、同時に欧米の人々も感情の奥底では私たちと分ち持っている考えである。それが欧米の人々にアピールした事が、カンヌ映画祭での受賞につながったのだろう。

このようなアジア的なテーマそしてそれを越えた人間共通のテーマを感じさせてくれるという以外に、この映画は私にとって大変興味深かった。それはこの映画の背景が1990年代後半と15年近く昔とはいえ、シンガポールの一般庶民の暮らしを知るいいチャンスになったからである。この一家が住むHDB(集合住宅)の内部やそこで暮らす人々の日常を見る事は、私にとって始めての機会であった。次々と新しいHDBが建っているとはいえ、この時代のHDBもまだまだシンガポールでは良く見かけるため、現在のシンガポールの人々の日常の暮らしもそれほどこの時代と変わっていないのではなかろうか。

そしてまたこの映画では、いろいろと議論の対象となっているシンガポールの教育制度の一端も垣間みる事が出来る。国土の小さいシンガポールでは将来の国を背負う若者の教育は最重要政策の一つであり、子供には小学校の頃から厳しい英才教育(詰め込み教育ともいえる)が課せされる。大量の宿題をこなす事が求められ、また学校では厳しい規律に従う事が求められる。

ごく普通の小学生であるジャールーはこのような仕組みに上手く順応できず、しばしば宿題をして来なかったりして先生には問題児として目をつけられている。また友達とけんかして誤って友達を傷つけてしまい、学校の規律に反したとして小学校の全生徒の前で先生からお尻をむちでたたかれる「むち打ちの刑」を受ける。

シンガポールではイギリス統治下以来のむち打ちの刑が残っていると聞いていたが、目にするのは始めてである。全生徒の前でのむち打ちの刑といういわば見せしめの刑罰は、最近の北朝鮮のNo2が処刑されたのを連想し、あまり気持ちのいいものではない。ただ救いは、それを見ている他の生徒達が恐怖の面持ちでそれを見つめていた事、中には顔を覆ってしまう生徒もいた事である。

これは彼等が、このような刑が理不尽である事を分かっている事を示している。この場面を通して監督アンソニー・チェンは、シンガポールの若者も世界の他の国々の若者と同じように開かれた自由な教育を求めている事を訴えたかったのだろう。

またこの映画ではジャールーの母親が妊娠しており出産を間近に控えている事も描かれている。シンガポールでは夫婦共働きがごく普通であり、そのために家事を手伝ってくれるメイドを雇うのが一般の家庭でも行き渡っている習慣である事も、知っていた事とはいえこの映画で実感として知った事であった。

この映画は、メイドを解雇されたテレサを一家が父親の運転するタクシー(父親はタクシー運転手の職を見つけている)で空港に送って行く場面で終っている。しかしその後エンドロールが流れる中で、母親の出産の場面と出産した女の赤子を母親が抱いて笑う場面が出て来る。父親が見つけた新しい職そして家族に加わる新しい命が、この家族の未来の生活の明るさを暗示しており、大変感動的なエンディングである。