シンガポール通信−カンヌ映画祭カメラ・ドール受賞作品:ILO ILO(イロイロ)

このブログで、シンガポールの映画監督アンソニー・チェンの作品「ILO ILO(イロイロ)」がカンヌ映画祭カメラ・ドール(最優秀新人監督賞)を受賞した事を書いた。文化的にはまだ成熟していないといわれるシンガポールのしかも若手監督の映画作品が、世界的にもよく知られているカンヌ映画祭のカメラ・ドールを受賞するという事は、シンガポールにも創造性に富んだ人材が生まれつつある事を示している。文化やアートに関しては日本がシンガポールのずっと先を行っていると思っていたが、日本もうかうかしていられないという警鐘を私としては鳴らしたつもりである。

とは言いながらこの事を論じるには、映画「ILO ILO」を鑑賞しない事にはどうしようもない。日本では来春公開といわれているが、ハリウッド映画しか上映しないシンガポールでは上映されるかどうかわからない。なんとか鑑賞したいものだと思っていたら、昨日シンガポールから日本に帰国する際の、シンガポール航空の機内のエンタテインメントシステムの新着映画に含まれているのを発見した。これはラッキーだというので早速鑑賞した。

最初に感想から述べておくと、これは大変よく出来た映画作品であるの一言につきる。これだけ心を打たれる作品に出会うのは久しぶりである。先に述べたようにこの映画は、シンガポールの若手監督アンソニー・チェンの監督作品であるが、シンガポールにこれだけの才能が生まれているというのは驚きである。

ストーリーはシンプルなものである。時代は1990年代半ばのアジア金融危機の真っ最中の頃であり、その時代に生活していたシンガポールの一家の物語である。この物語の中心となる共働きの夫婦とその一人息子ジャールーの家庭が、メイドとしてフィリピンから出稼ぎに来たテレサを雇い入れる所から物語が始まる。

ジャールーは小学校の生徒で反抗期真っ最中。学校でいろいろと問題を起こして親を困らせたりするどこにでも居るような子供である。反抗期の子供にありがちなように、最初はテレサには心を開かない。しかしテレサが一生懸命にジャールーの面倒を見てくれるのに従い、徐々に心を開いて行く。このジャールーとテレサの心の交流がこの映画の縦糸となる物語である。

そしてそれに対して横糸として、ジャールーの両親の物語が展開する。父親はセールスマンとして会社勤めのサラリーマンである。しかし不器用な性格がわざわいし、セールスの仕事が上手く行かず会社を解雇されてしまう。次に務めた倉庫の警備の仕事でも失敗をし、そこでも解雇される。そして次はタクシーの運転手となる。しかもその間に投資で失敗し、数百万円の損失を被ってしまう。

これに対して母親の方は小さな会社に勤めている。この会社もアジア金融危機の影響で厳しい状況にあり、リストラの真っ最中である。彼女自身はある程度優秀な社員であり、社長にも信頼されており失業の心配はないように見える。しかし他方で、解雇する社員の解雇通知を社長の指示で作成し、そしてそれによって社員が解雇されて行くのを見る事による心の痛みを感じている。そしてまた問題を起こした子供のために学校に呼び出されるなどにより、強いストレスを感じている。そのために、心の平安を求めてインチキ宗教に手を出し、夫と同様にこれも金銭的には損失を被ってしまう。

1990年代後半のアジアの金融危機の時には、このような状況がシンガポールの一般の家庭では普通だったのだろう。そういう意味ではこの二人はどこにでもいる夫婦という事が出来るであろう。そしてこの家庭の経済状況が悪くなったためメイドを雇い続ける事ができなくなり、メイドのテレサが解雇されこの家庭から去って行く所で物語は終る。

この映画のどこがいいのかというと、ともかくも俳優の演技がいい。特にこの家庭の小学生の子供役を演じる少年の演技がいい。この子供役は8000人の候補の中から何度もオーディションを行う事により選ばれたとの事であるが、これまで全く演技経験のなかった小学生である。しかし映画を見る限り実に自然な演技で、反抗期という微妙な時期にある子供の揺れ動く心を上手く表現している。

これに対してメイドのテレサ役を演じるのは、フィリピンの女優アンジェリ・バヤニである。こちらの方はプロの映画俳優だけあってごく自然に、言い換えると大変上手く自分の役を演じている。少年ジャールーとメイドであるテレサの心の交流がこの映画の中心テーマであるだけに、当初かたくなにテレサに身の回りの面倒を見てもらう事を拒否していたジャールーが徐々に心を開いて行く過程では、このジャールー役の子供とアンジェリ・バヤニの演技が重要となる。

しろうとである子供の自然な演技に対してアンジェリ・バヤニの演技が出過ぎては両者が上手く噛み合ない。そこをアンジェリ・バヤニは、抑えたしかしながら同時に豊かな感情表現のある演技によって、少年が心を開いて行く過程を見事に観客の心に訴える事に成功している。

(続く)