シンガポール通信ー中国の防空識別圏問題

中国が東シナ海防空識別圏を設定した事が大きなニュースになり、日本や米国で大きな懸念を引き起こしている。防空識別圏というのは、国が防空上の理由から領空を含めたより広い範囲を示す名称である。防空識別圏内を飛行する際には、飛行計画を事前に航空管制機関に提出する事を義務付けられており、事前の計画の提出がない場合はスクランブルの対象になる。

このニュースを聞いて真っ先に思い出したのは、古い話になるが大韓航空機撃墜事件である。大韓航空機撃墜事件というのは、1983年9月に韓国大韓航空のボーング747がジョン・F・ケネディ空港を離陸後アンカレッジ空港を経由してソウルの金浦国際空港に向かって飛行していた際に、当時のソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソ連空軍の戦闘機により撃墜された事件である。この事件で同機の乗員・乗客あわせて269人全員が犠牲となった。犠牲者の中には28人の日本人も含まれていた。

領空を侵犯したとはいえ、民間航空機をソ連空軍の戦闘機が撃墜し多くの人が犠牲になった事から、当然ではあるが世界的に怒りの声が上がった。ところが当時はまだ冷戦時代であり、秘密主義に貫かれたソ連邦はまともな対応をしようとしなかった。当初は撃墜を否定し、認めた後でも「領空を侵犯し警告に応じなかったから撃墜した」とか「民間機を装ったスパイ機であるから撃墜した」などと言を左右し、結局の所うやむやにしてしまった。結局の所犠牲になった人たちやその家族は、まったく何の謝罪も補償も受けないという悲惨な結末になったのである。

もちろん現在は当時とは状況はまったく異なる。ソ連邦は崩壊し、中国も開放政策を取り入れ資本主義と共産主義を折衷した政策を取り入れている。両国とも日本・米国とも国交を回復している。しかも今回の防空識別圏は領空とは異なる。もしもスクランブルされてもまさか撃墜に至る事はあるまいという気はする。

とは言いながらスクランブルはスクランブルである。大韓航空機撃墜事件に関しても、ソ連邦崩壊後事件の真相が徐々に明らかになったところによると、大韓航空機を撃墜した戦闘機の操縦士はそれが民間機である事を知っていたし、また撃墜を指示した地上担当者もそれを知っていた。ところが、「領空侵犯機は撃墜する」というルールに従わなかった場合にあとで受ける処罰を怖れて撃墜した、という事が明らかになったのである。

スクランブルした戦闘機を操縦している操縦士も人の子。何かのミスで大韓航空機撃墜事件のようなことが起こらないという補償はない。したがって少なくとも、この防空識別圏を飛行する可能性の大きい飛行機に乗る際には、万が一とはいえ撃墜されて自分が死に至る可能性があるという覚悟をしておくべきだろう。これが少なくとも一般市民が出来る最低限の心構えというものである。

もちろんこの一方的な中国による防空識別圏設定に対しては、日本や米国の政府・マスコミなどからも大きな非難の声が上がっており、日本政府は防空識別圏の即時撤廃を中国に申し入れている。今回日本の政府の対応を評価できるのは、このような言葉による非難に徹しており、具体的な行動を起こしていない点である。

日本がこの挑発に乗り、尖閣列島上空に常時哨戒機を飛行させる等の措置をとっていたら、日中の緊張関係は後戻りできない状態になっていたかもしれない。米国が爆撃機防空識別圏に飛行させ中国の反応を見るという措置をとったが、このような微妙な部分の対応を米国に任せたというのも評価できる部分である。尖閣列島国有化が政治・経済の両面で日中間に引き起こした緊張と混乱から日本政府も学んだという事だろうか。

それと共に興味深かったのは、日航全日空も中国が防空識別圏設定を発表するや否や、それに関係する飛行計画を中国に提出し始めたという事実である。政治的にはこれは中国の防空識別圏設定を認めた事になる。当然のことながら日本政府は困惑し、日航全日空に対して飛行計画提出の取りやめを要求し、最終的には両社とも飛行計画を提出しないことになった。とはいいながら、まったく政府に相談もせずに両社が飛行計画の提出を始めたという点が興味深い。現実主義的と言うか、悪い言い方をするとまったく政府を信用していないという態度である。

「私達はビジネスをしているのであって、その場合に最も重要なのはお客の安全である、政治の事は二の次である」というのが両社の言い分であろう。そして政府から飛行計画の提出取りやめを要求された時にも「それならばこの防空識別圏を飛行する際の乗客・乗員の最終的な安全に日本政府は責任をとってくれるのか」と迫ったのであろう。

これこそは資本主義的行動倫理が曲がりなりにも身に付いている日本の会社の良い所ではあるまいか。そして同時に面白いと思ったのは、同様に台湾の航空会社も飛行計画の提出を始めていた事である。それに対して韓国の航空会社は飛行計画を出していない。ここに、日本・台湾・韓国の国情の違いが見えているようで、興味深いではないか。