シンガポール通信ー新聞は消え去るのだろうか

最近どうも新聞があまり面白くなく感じる。もちろんここでいう新聞は、紙に印刷された通常の新聞の事である。

以前はそのような事はなかった。シンガポールでは日本の大手の新聞は購読する事は出来るものの、購読料が高いので遠慮していた。そのため、週末に紀伊国屋に出かけて土曜・日曜の新聞を買い込んで、家でゆっくり読むのは週末の私の楽しみの一つであった。

ところが最近は土曜、日曜の新聞があまり面白くないのである。以前なら1時間ほどかけて出来るだけ多くの記事を読んだものであるし、それがまた楽しみであったが、最近は15分も読むと面白い記事がなくなってしまい、放り出してしまう事が多くなった。

これはなぜかを考えると、やはりネットの普及によりネット上で新聞の主要な記事が読めるようになった事が大きいのではないだろうか。最近の新聞は、ネット時代に乗り遅れまいとして、主要な記事はネット版の新聞に掲載している。しかもこれはリアルタイムとまではいかないにせよ、かなり短い周期で更新される。

紙の新聞を読んでいて面白い記事が少なくなったのは、興味を引きそうな記事はすでにネット上にアップロードされており、それを私が読んでしまっているからである事に気付いた。私はスマートホン(スマホ)は持っていないが、大学のオフィスで仕事をしている時にはやはり数時間毎に周期的にネット上の新聞を見て、新しい記事がないかどうかを探すのが日課になっている。

スマホを持っていない私ですらそうであるから、いつもスマホと首っ引きの最近の人たちは常時最新のニュースを入手して知っているのだろう。ともかくも主要なニュースに関しては新聞に載るのと同じ記事をネット上でより早く見る事が出来るのである。主要なニュースは興味を引きそうなニュースであり、それをネットで見てしまっているわけであるから、1日遅れの紙の新聞をみても、なるほど面白そうな記事が少なくなったはずである。

もちろん新聞記事はニュースだけで占められているわけではない。家庭面・文化面等多くのその他の記事が新聞には載っている。しかし、これらの記事の中でも読者の興味を引きそうなものは、ネットに載っている事が多い。また、家庭面・文化面等に載る記事は、読者がそれを毎日心待ちにしているというものではあるまい。たまたま興味を引けば読むけれども、それはあくまで受動的な読み方に過ぎない。読者は自分が何かを知りたいと思ったら、ネットでサーチするのではあるまいか。

その意味ではやはり、興味のあるニュースやその他の記事への接し方が変化して来ているのではないかと感じる。これまでは、大手の新聞が大多数の読者に向けて記事をその重要性に応じて選別し、そしてそれを読者の興味を引くようにレイアウトしていた。そして読者は、新聞の編集部によって与えられた記事の重要性に沿ってそれを読むというのが習慣になっていた。

それが、読者側が自分の読みたい記事をネットでサーチして読むという形式に変化しつつある事になる。つまりよくいわれている事かもしれないが、ニュースやその他の記事に関して、読者側に選択の自由が移りつつあるのである。

これはやはり大きな変化であると言わざるを得ない。そういえば、帰国した際に電車の中などで見かける風景も変わってきたのではあるまいか。かっては朝夕のラッシュ時には、混雑している車内でも新聞を読んでいる人が多かった事を覚えている。それが最近は、めっきりと新聞を読んでいる人の数が減ったように思われる。つまり、人々は紙の新聞を読まなくなって来ているのである。

一時期ネットの普及に伴い、紙の新聞はなくなるのではないかという議論が盛んに行なわれた事がある。しかし当時はやはり二次元の紙面に適切にレイアウトされた記事を読む方が、ネット上のいわば一次元に配置された記事を読むより効率的であるという意見が出されたりして、この議論は最近はかげを潜めているようである。しかし、どうも現実には人々の習慣は着実に変りつつあるのではあるまいか。そしてその先にあるのは紙の新聞の消失という事態であろう。

自分自身の経験からしても、すでに紙の新聞の重要性はそれほどではなくなってきている。紙の新聞は近い将来になくなる可能性が大きいと言い切れるのではないだろうか。問題はそれがいつかという事である。海外の歴史のある新聞が紙の新聞の出版を止めるというニュースを何度か聞いた事からも、それはそれほど遠い未来ではないだろう。それまでに新聞社はネットの新聞で収入を得る新しいビジネスモデルを考える必要があるのではあるまいか。