シンガポール通信ー携帯戦線異状あり:サムスンの腕時計型携帯

NECパナソニックスマホ事業からの撤退、マイクロソフトによるノキアの携帯電話事業部門の買収、そしてドコモのiPhoneの取り扱い開始、などの携帯電話関連の大きなニュースの次に来たのはサムスンの腕時計型携帯電話の発表である。

次世代型携帯電話としてスマートホン(スマホ)がアップルから発売されたのは、2007年である。それは世界の携帯電話事業の地図を塗り替え、国内で言えば前回書いたようにNECパナソニックのようなかっての携帯電話の主役会社が、携帯事業(正確にはスマホ事業であるが携帯事業と言っていいであろう)から撤退するという事態を引き起こした。そして国外ではこれも前回書いたように、かっての携帯電話業界の世界王者であるノキアがその携帯電話事業をマイクロソフトに売り渡すという事態を引き起こしている。

他にも初期型スマホとでもいうべき携帯電話であるブラックベリーを製造・販売しているリサーチ・イン・モーションが、ブラックベリーの不振のため倒産の危機に瀕していると言われている。ブラックベリーもかっては一世を風靡した携帯電話である。2010年の米国でのスマートホン市場でのシェアは第1位であったが、現在は2%に落ち込んでいる。

私がシンガポールに移った2008年の頃は、出先から送られるメールの多くはブラックベリーを使ったものであった。Sent from BlackBerryという添字のついたメールがそれである。メールの本文の下に、いかにも誇らしげにこの添字が輝いて見えたのを覚えている。ところが現在は、それがSent from iPhoneに変わってしまっておりSent from BlackBerryという添字を見る事はなくなった。これもまた栄華盛衰の他の例であろう。

いずれにしてもスマホが出現してからすでに6年。そろそろ次世代スマホもしくはスマホを超える通信デバイスが出て来てもおかしくない。その一つがウエアラブルコンピュータであることは間違いない。文字通りコンピュータを身につけるといウエアラブルコンピュータのコンセプトは、かなり古くから提案されている。ウエアラブルコンピュータの概念としては大きく分けて、衣服にコンピュータを埋め込もうという考え方と、眼鏡や時計などの身につけるツールにコンピュータを埋め込もうという考え方に分かれる。

前者は一時大いにはやったが、衣服の一部をディスプレイにして衣服を着ている人を歩く広告塔にするというアイディアが主体であって、これを超える考え方が出て来なかったように覚えている。ファッションという観点からすると中々面白いアイディアではあるが、しょせんはファッション。一般の人がディスプレが埋め込まれた衣服を着るかというとなかなかそうはいかない。

衣服や眼鏡、時計などという身につけるものはある意味文化と深く関わっており、新しい衣服を提案してもそれが服装文化を変えるとなると、一般の人々の間にはよほどの利点が無い限りそう簡単には広まらないもしくは受け入れられないものなのである。そのためコンピュータを埋め込んだ衣服としてのウエアラブルコンピュータは研究面でも徐々に廃れて行った。

それでは眼鏡型や腕時計型はどうか。眼鏡や腕時計を常時身に付けるという文化は既に人々の間に普及しており、またそれはファッションとしても受け入れられている。ファッショナブルでかつコンピュータが埋め込まれておりネットとの接続が容易で種々の情報が容易に得られるとなると、そのような新しい端末は普及するはずである。とそのように考える研究者や技術者が数多くいる事は容易に想像できる。その意味では眼鏡型・腕時計型ウエアラブルコンピュータは出現しても不思議ではない条件が整っている。

眼鏡型のウエアラブルコンピュータはこれもまたかなり古くからそのアイディアが提案され、種々の試作品・製品が提案・開発されてきた。初期型のものはハードの制約から眼鏡というよりヘッドマウントディスプレイの形状をしており、未来型ではあってもとても実際に人々が身につけるとは思われない代物であった。それが最近はハードの進歩で小型化して来た。その代表例が来年にでも発売されると言われているグーグル・グラスである。

グーグル・グラスによって一挙に眼鏡型ウエアラブルコンピュータが次世代スマホとして普及するだろうと予測する人は多い。しかし私はそう簡単には行かないと考えている。このブログでも書いたように、その大きな理由の一つは眼鏡はファッションになっているとはいえ、誰でも常時眼鏡を付ける文化が普及しているかというとそうではない事があげられる。文化として人々に受け入れられるか否か、それは実は新しい機器が普及するための大きな障壁なのである。そしてもう一つが操作の困難性である。音声での操作が提案されているようであるが、指でコンピュータを扱うというインタフェース、いやもっというと文化に慣れて来た人々に取って音声による操作という全く異なる使い方はそう簡単には受け入れられないだろうと思う。

(続く)