シンガポール通信ー藤圭子さんの死に思う

歌手の藤圭子さんが亡くなった。自殺との事である。日本の週刊誌やテレビのワイドショー等には絶好のネタになるであろう。

先週末に短期間帰国していたが、予想していた通り電車の中の中吊り広告では複数の週刊誌が競ってそのネタを扱った特集記事を組んで宣伝していた。あまりにも露骨な記事のように見えたので買う気にもならなかったが、このようなゴシップ記事はそれなりに売れるのだろう。テレビの方は見なかったが、一時は各テレビ局ともワイドショー等の時間はこのネタで持ち切りだったことは容易に想像される。

私自身は藤圭子さんのファンというわけではないが、彼女の死の記事を見るとある種の感慨は生まれてくる。私が彼女を知ったのは、やはり大ヒット曲「圭子の夢は夜ひらく」によってである。この歌は1970年発売で、10週連続売り上げ1位を記録、77万枚を売り上げる大ヒットで、これによって彼女は第1回日本歌謡大賞、第12回日本レコード大賞を受賞している。まさに彼女は1970年あたりを頂点として一世を風靡した演歌歌手であったと言って良いであろう。

当時の私は京都で大学生活を送っていた。地方の高校を卒業して京都に出て来た私は、最初はなかなか友人が出来なかった。工学部に属していたが、週末は下宿にこもって文学作品を読みあさるという文科系的な生活をしていたので、同じクラスの工学系の友人がなかなか出来なかった。1970年といえばすでに修士課程に進学していたので、話しを交わす程度の友人はある程度出来ていたはずであるが、親しい友人というのはほとんどなかったように記憶している。

むしろ文学論を戦わしたりする相手は文系の友人として何人か存在していた。その意味では孤独ではなかったわけであるが、とはいえ毎日のように顔を合わせている同じ工学系の学生の中に親しい友人がいないというのは、ある種の孤独感を感じさせられたものである。

そのような私にとって、藤圭子の歌う「圭子の夢は夜ひらく」はそれなりの存在感をもって訴えてくるものがあったのであろう。そして時代は、学生紛争はなやかなりし頃である。若い世代が世界を変える事が出来るかもしれないという高揚感と同時に、セクト争いに堕落して行きつつある学生運動が近い将来のその終末を迎える事が予測される無力感があいまった、とらえどころのない浮揚感に多くの学生がとらわれていた時代である。そのような時代には彼女の歌はまさにぴったりとマッチしてたのであろう。

とはいいながら、東京に就職してからは演歌というものとは無縁の生活を送ったせいで藤圭子さんと私の付き合いは(もちろん私の方からの一方的な)それ以降はなくなった。そして私は、40余年の時間を経て彼女の死のニュースを聞いたわけである。

その時の私が受けた感覚はもちろんショックであった部分もあるが、「ああなるほどな」というある種の納得感のようなものもあった。というのも、少なくない数のタレント・歌手・芸人等の芸能界と呼ばれる世界に住んでいる人たちが、老年に入って自殺しているからである。最近の例で言うと、ウクレレ漫談でこれも一世を風靡した牧伸二が4月に亡くなっている。彼の場合も自殺と考えられている。

芸能界に属する人たちの中でも、若い頃に人気者となり一世を風靡した人たちにとって、年と共に徐々に世の中から忘れ去られて行くというのは、無力感・孤独感を伴った何とも言えない感覚なのであろう。そして芸人と言われる芸によって身を立てて来た人たちも、年と共に芸の衰えを感じざるを得なくなる。牧信二の場合は、得意にしていたウクレレの演奏が脳溢血以来身に任せなくなったことも原因の一つといわれている。

とはいいながら、これらの人たちの自殺という記事を見た時に私が感じたのは、ある種の「潔さ」である。無力感・孤独感の果ての自殺とはいえ、自ら死を選ぶというのはそれなりの勇気と努力がいる。ヒトという生物にとって自らの生存を図る事は何事にも優先することである。(もちろんヒトという種の保存のために自らを犠牲にする自己犠牲の行為はその限りではないが。)

私自身もいろいろな悩みを持っている時に自殺を考えなかったかと言うと嘘になる。駅のホームで電車を待っている時に、後一歩踏み出せばこのわずらわしい世の中から解放されるという誘惑にとらわれた事も何度もある。しかしその最後の一歩を踏み出すのは、単なる一歩ではあっても、とてつもない意志の力がいる一歩ではあるまいか。私自信も誘惑にはとらわれた事は多くとも、その最後の一歩を踏み出す勇気はとてもなかったといえる。

藤圭子さんの場合も同様である。彼女の場合は飛び降り自殺であるといわれているが、飛び降りようとして最後に手すりを離すという行為のためには強い意志の力が必要であったことは否定のしようがない。

週刊誌やテレビのワイドショーが、彼女の自殺の原因を巡ってああでもないこうでもないと読者や視聴者を引きつけるための記事・番組を作った事は容易に想像できる。そして私達はそのような記事や番組に引きつけられるものである。そしてそこで描かれるのは、複雑な人間関係や金銭関係に巻き込まれそしてそれによって最後は死に追いやられた元有名人というお決まりのストーリーであろう。

しかしながら本人にとっては、それは最後には「to be or not to be」というハムレットの台詞に代表される意思決定の問題である。そして自分の本能が必死に止めるのを振り切って死を選ぶという行為には、私はやはり「潔さ」もっというと「美意識」を感じざるを得ない。