シンガポール通信ー30年後に消える仕事は何だろうか

日経ビジネスの8月12日号が、「ロボットvs職人社長:30年後消える仕事、残る仕事」という特集記事を掲載している。一見読者の興味を引く特集記事ではある。特に最近人工知能研究の進化により、コンピュータ・ロボットが知能を持ち始め、人間が得意としていた領域に進出しつつあるという話を聞く事が多いのでなおさらである。

米国のシンクタンクの創設者であるトーマス・フライ氏は、今後数十年で世界中の雇用の50%が機械化によってなくなるだろうと予測している。そういえば同じような主張をMITかスタンフォードの教授がしていたのを聞いた事がある。

しかし考えてみれば、この手の話は機械というものが現れ始めた昔から私たちは議論をして来たのではなかろうか。そして確かに18世紀〜19世紀の産業革命によって、産業の主体が第一次産業から第二次産業に移るとともに、農民などの第一次産業に従事していた人達の仕事が奪われた。そして20世紀半ば以降のオートメーション化によって第二次産業の機械化が進み、多くの工場労働者の仕事が奪われた事は確かである。

しかしこれは別の見方をすると、産業革命では第一次産業に代わり第二次産業が産業の主体となり、またオートメーション化によって第二次産業に対してサービス業などの第三次産業が対等して来た事を意味している。つまり機械化はそれまでの人々の仕事を機械が取って代わったとともに、新しい仕事の機械を人々に与えて来たのである。

したがって今議論をすべきなのは、人工知能の進化が第三次産業も含め今後どの部分を機械化して行くかという事であり、そして同時に重要なのはそれに対してどのような新しい仕事が現れるかということであろう。

その意味では抽象的なレベルではこの議論の答えは明らかである。つまり定型的な仕事は基本的には機械で取り替え可能であるということである。しかし同時に創造的な仕事、言い換えればそれまで存在しなかったものを作り出す仕事は機械では置き換え不可能であるという事である。そして同時に、機械の存在の目的は私たちの社会を支える事であり、そして社会は結局人間で成り立っている事を考えると、人間の好み・感情そして時には予測不可能な行動に対応するという部分はなかなか機械化は困難であろうという事である。

そして同時にそのように考えると、この特集の内容もある程度予測できる。職人という人達の仕事は、同じ事の繰り返しを行う定型的な仕事の部分と同時に、常に新しいものを生み出す事にチャレンジする創造的な仕事と、個々の顧客のバラエティに富んだ好みに対応するという部分がある。そして後者は機械で置き換える事は難しいというのが結論だと予測できるのである。

この特集では「ラーメン作り」「ホテル運営」「投資」「宮大工」「実演販売(ジャパネットたかたが代表例)」の5つの領域を取り上げ、これらに従事している人達の仕事が機械で置き換え可能かどうかという議論を行っている。そして「ラーメン作り」の場合はラーメンの水切り能力、「ホテル投資」の場合は顧客の細かい好みへの対応能力、「投資」であればこれまで生じなかったような事態への対処能力、「宮大工」は木の材質に応じて細かくかんなの掛け方を調整するやり方、「実演販売」であれば顧客に受け入れられる新しい商品を見いだす能力などは、現時点ではロボットで置き換え不可能であると結論付けている。

これらはいずれも、上に述べたこれまでなかった新しいものを創造する能力、変化にとんだ人間の感情の動きや好みの変化に対応する能力と言っていいであろう。その意味では機械に置き換えにくい部分である事は確かである。もっともラーメンの水切りのタイミングなどは機械化可能とも思われる。むしろラーメン職人に求められるのは、これまでなかったそしてそれにも関わらず人々の好みに合致したラーメンを作り出す事であろう。

というわけで、この特集記事はたしかにそこに書かれた事は間違っている訳ではないが、新しい見方に欠けるように思われる。あまりにも当たり前なのである.30年後には思いもしなかったような仕事がなくなっている可能性は当然ある。そこをもう少し大胆に予測してもらいたかった。

その点で私がもしかしたら消えてしまうのではと考えているのは「棋士」「碁士」と言われる人達である。将棋や碁を打つ事は人間の知力の最先端の能力であり、棋界や碁界は天才と言われる棋士・碁士達がしのぎを削る場であり、棋士や碁士はそのような人達にしか許されていない職業であると考えられて来た。

しかしながら人工知能の進歩により、コンピュータが人間のプロ棋士の能力に近づき始めたもしくは追い抜きかけている状態が最近生じつつある。私は人間の棋士や碁士がコンピュータに負ける事は、棋士や碁士という職業が消えてしまう可能性が大きい事をこのブログでも述べた(「将棋や碁は単なるゲームになってしまうのだろうか」参照)。

しかしどうもそのような危機感は、棋士や碁士の間で薄いようである。特にトップクラスの棋士5名とコンピュータが対戦した結果棋士が大きく負け越してしまったというのは棋界にとっては由々しき事態なのに、それの意味している所はあまり真剣に考えられていないようなのである。

この特集でコンピュータに負けた棋士の一人のコメントが「敗者戦を語る」という欄に掲載されているが、どこでまずい手を打ったから負けたとか、人間は美しい手を選択するが、コンピュータはそのような感覚(美的感覚)を持たないから強いのだとか、負け惜しみに終始しているように感じられる。

知力を競うゲームでコンピュータに負けるという事は、人間がその分野をコンピュータに明け渡す事を意味していることであり、そのような職業は将来的には存続が危うくなる可能性が大きい。なぜそのような考え方を持たないのだろうと私には不思議に感じられる。