シンガポール通信ーグーグルグラスは果たして普及するか?:2

グーグルグラスは普及しないだろうという私の意見を書いた。なぜそう考えるか、今回はそれについて書いてみよう。

グーグルグラスが普及しないだろうという理由の最大のものは、現在のスマートホンに対してグーグルグラスが提供してくれる新しい機能がないということである。前回も書いたようにグーグルグラスが実現するのは、検索、写真やビデオの撮影、メールメッセージの閲覧・作成・送信などである。これは現在のスマートホンの基本機能としてすでに実現されているものである。人々が期待しているのは、スマートホンでは実現出来なかった新しい機能がグーグルグラスで可能になる事であろう。何もスマートホンで出来る事をグーグルグラスに期待している訳ではあるまい。

スマートホンのディスプレイに表示される情報が、自分の目の前の小さなディスプレイに表示される事により、より自然な形で情報を得る事が出来るだろうと言われている。たとえば現在見ている風景の中のビルの情報や現在見ている相手に関する情報などが、ごく自然な形でディスプレイに表示されるというわけである。そしてそれがグーグルグラスの特徴であるといわれている。

しかしこれらの機能は、「セカイカメラ」などで代表されるようなアプリによって、現在のスマートホンでも実現可能である。違いは、スマートホンの場合はそれをかざすという動作が必要な事である。しかし既に歩きながらでも電車の中でもほぼ常時スマートホンをみており、またしばしばそれをかざして写真を撮っている人々にとって、かざすという行為はごく自然にできる行為ではないだろうか。

スマートホンが普及する以前は、iモードなどが普及していた日本を例外として、常時スマートホンを見たりそれをかざして写真を撮ると言った行為は人々はあまりしなかった。その時点ではたしかに、ごく自然に情報を得る事が出来るというグーグルグラスの特徴は主張出来たであろう。しかし人々の間に常時スマートホンを見たりかざしたりするという一種の「文化」が生まれてしまうと、グーグルグラスが主張する特徴は失われてしまうとまでは言わなくてもかなり弱くなるのではないだろうか。

スマートホンをかざすという行為より、グーグルグラスを装着するという行為の方がスマートであるという意見はあるだろう。しかし眼鏡をしていない人がグーグルグラスという一種の眼鏡を常時装着するというのは、かなり心理的抵抗があるものである。私自身も車の運転には眼鏡が必要なので一応眼鏡は持っているが、普段は装着する事は無い。車の運転時以外には特に不便を感じないからである。そしてそれ以上に急に眼鏡をかけると私のイメージが変わってしまうので、そうしたくないという心理も働く。

つまり特に必要のない人々に対して眼鏡を装着させるというのは、いわば人々の文化を変える事を意味している。眼鏡の装着という新しい文化が定着するにはそれなりの時間が必要なのである。携帯電話の場合も、それを声による会話に使うという当初の目的に使用するのではなく、その画面を見ながら情報の閲覧に使うという使用法が定着するには、いいかえると新しい文化が定着するまでにはそれなりの時間がかかっている。日本でiモードが開始された1999年を起点として考えても、すでに十数年の時間が経過しているのである。

もちろん、新しい機器を使う事に伴って新しい行為をすること、いいかえれば新しい文化を取り入れる事が、これまでに無い新しい機能を提供してくれることと結びつくならば、人々は特に若い世代は喜んでそれを取り入れるだろう。

ソニーウォークマンの発売に伴い、歩きながら音楽を楽しむ事ができることになり、若者達が競ってヘッドホンを装着して外出するようになったというのは、まさにこの新しい機能の提供が新しい文化を生み出した一例である。もちろん上に述べたように、携帯メールの普及によって人々が携帯を耳に当てて使うのではなくて、その画面を見る事が使い方の主流になったというのも別の一例であろう。

つまり私が言いたいのはグーグルグラスを常時装着するという新しい文化が定着するには、グーグルグラスが現在のスマートホンに無い新しい機能を提供する必要があるという事である。しかし残念ながら、現時点で考えられている検索、写真やビデオの撮影、メールメッセージの閲覧・作成・送信は、スマートホンで既に実現されている機能である。もちろん一部の若者達はこの新しい文化に飛びつくであろうが、グーグルグラス特有の新しい機能(つまりキラーアプリ)が創出されない限りは、一般には普及しないだろうというのが私の意見である。

(続く)