シンガポール通信ーフィリップ・K・ディック「空間亀裂」創元SF文庫2

このSFは、読む人によっていろいろな読み方が出来るだろう。何よりも、いろいろなアイディアがちりばめられている。黒人大統領の誕生、人口爆発による経済の行き詰まり、人口爆発を防ぐための人工冬眠、臓器移植、公認された売春を行う人工衛星、並行宇宙にある地球(並行地球)、超高速移動機の欠陥によって発見された並行宇宙との通路、平行地球への移民、並行地球住むホモサピエンスとは異なったヒト種族とその文明、などのいろいろなテーマもしくはアイディアがこのSFには詰め込まれている。

興味深いのは、これらのテーマ・アイディアには、SF的なものと同時に社会問題的なものが多く含まれている事である。黒人大統領、人口爆発、臓器移植、公認売春などはSF的ではなくて、むしろ社会問題的なテーマである。しかし、かといってこちらの社会問題的テーマを掘り下げるというわけではなく、社会問題的なテーマとSF的テーマが渾然一体となってストーリーが極めて速いスピードで展開する。

このあたりがディック的とでも言えるのだろう。そしてそのスピード感が彼のSFを読む人に伝わるのだろう。それがまた彼の作品が映画化される事が多い理由なのだろう。実は彼の作品そのものは読んでいてアクション映画的ではまったくない。しかしアクションシーンは少ないものの、いくつものテーマ・アイディアがごったになってストーリーが進行する彼のSFが映画の脚本家にある種のインスピレーションを与え、そして映画化につながるのではなかろうか。

もっとも私にとって最も興味深かったのは、並行地球に住むヒト種族とこちら側の地球の人間との関係である。この種のSFでは、並行地球では人間とまったくおなじ人種が住んでおり、文明や技術の発達も同じ程度であるが細部が異なっており、それが二つの世界の間に大きな摩擦を引き起こすというのがよく見られるストーリー展開の手法である。(村上春樹の小説「1Q84」における、本来の世界1984と主人公達が迷い込んだ1Q84の世界の関係などがその良い例である。)

ところがこのSFでは、並行地球に住んでいるのはなんとネアンデルタール人なのである。彼等は私達人間(ホモ・サピエンス)とは約50万年前に分岐した別の種族であり、現在の地球では私達の先祖が彼らが住んでいた地域に移住する事により圧迫され、最終的には絶滅した。それがこのSFでは、並行地球ではネアンデルタール人が並行地球の住人になっている。そして彼等は地球とはまったく異なる独自の技術を進化させている。

たとえば金属をもっていない。金属を持っていなければ現在の私達が有している機械類を作り出す事は出来ないと思われるが、木材の利用などによりある種の動力機関を作り出す事に成功しており、飛行なども可能である。一見した所は人間に比較して技術文明的には遅れているように見えるが、部分的には人間の技術を凌駕するような彼等自身の技術も有している。

そしてそのために、故障した超高速移動機の亀裂を通って並行地球へ移民して行った人間との間に衝突が生じる。この衝突の事は、直接はこのSFでは語られていないが、移住して行った人間のグループがネアンデルタール人達によって滅ぼされたらしい事が語られている。

具体的なストーリーの展開としては、より多くの人間を移住させようとして超高速移動機の亀裂を拡げようとした結果、その亀裂が約百年後の並行地球につながってしまう。約百年後の並行地球においては、地球の人間が移民した先が荒れ果てた湿地帯になっており何体かの人間の骨が見つかる。そしてそのことから、移住していった人間のグループがネアンデルタール人によって滅ぼされたらしい事が推定されるのである。

このストーリー展開はこの間読んだ「5万年前」を思い出させる。「5万年前」には、現在の人類の祖先が、彼等が住んでいたアフリカが気温の寒冷化により全人口を養えなくなったので、なんどもアラビア半島への移住を試みたという人間の歴史が記述されている。ところがそこにはネアンデルタール人(もっと正確にはネアンデルタール人の祖先)が住んでおり、移住しようとしたグループの大半は彼等によって滅ぼされた。

そしてそのうちのたった一つのグループが移住に成功してアラビア半島に拠点を築いたのである。いったん移住に成功すると、私達の祖先は後は次々と移住地を拡大し、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人やアジアにおける北京原人などを滅ぼし、いわば怒濤のように世界に広がり現在の世界中に住んでいる私達人間につながるのである。これが現在「アフリカ単一起源説」として人間の祖先に関して最も信頼されている学説である。

この人類の祖先に関する極めてロマンに満ちた学説がずっと私の頭の中にあったので、ディックのこの「空間亀裂」を読んだ時、あたかもディックがこの学説を知った上でこのSFのストーリーを作り上げたかのように感じられた。本当の所はどうだろう。