シンガポール通信ーフィリップ・K・ディック「空間亀裂」創元SF文庫

フィリップ・K・ディック(以下ディック)は米国のSF作家。1928年生まれで1982年に53歳で死去している。

彼のSF作品は、現実世界と虚構世界が渾然としたようなストーリーを描く点に特徴がある。しかし彼のSF作品が、SFファン以外にはそれほど読まれているとは思われない。彼の作品はむしろ映画化される事によって、一般の人々の目に触れる機会が多い。

彼の作品の中で映画化されたものとしてよく知られているのは、「ブレードランナー」(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の映画化)、「トータル・リコール」(短編「追憶売ります」の映画化)、「マイノリティ・レポート」(短編「少数報告」の映画化)などである。これらの映画は日本でもヒットしたので、多くの人が覚えているだろう。

私自身は彼のSFを本でそれほど読んでいるというわけではないが、ハヤカワ文庫から出版されている主な長編・短編には一応目は通している。現実と虚構の入り交じった彼のSFのストーリー展開に何かカフカ的なものを感じてしまうので、私自身はディックはSF界のカフカであると思っている。

一筋縄では行かない彼の小説のストーリー展開が時には難解に感じられることも、名前はよく知られているのに実際に彼の作品を読む人がそれほど多くない理由なのであろう。しかし一部の熱心なファンには愛好されているし、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レム(ちなみに彼も名前はよく知られている割にはあまり読まれていない作家である)は、米国のSFを全面的に批判しているのに唯一ディックの作品は賞賛している。読者にとって好き嫌いの多い作家なのだろう。

さてこの「空間亀裂」は、その翻訳が今年の2月末に創元SF文庫から出版されたばかりであり、4月初めに帰国した際に本屋で見つけて購入した。ところが米国での出版年を見るとなんと1966年に出版されている。ということは米国で出版されてからほぼ半世紀を経て、日本で出版されたということになる。

なぜ今頃になって翻訳されたのかという気もするが、一つには創元SF文庫が未翻訳のディックのSFを順次翻訳して行くというプロジェクトを進めているらしいので、その一環として今回の出版になったというのが理由であろう。

この小説の主人公はジェームス・ブリスキンという黒人で、共和党の次期大統領候補者として現在の大統領を激しく選挙戦を争っているというのがこのSFの背景である。そして最後にはブリスキンは大統領に選ばれるので、ある意味でこのSFは米国における黒人の大統領の誕生を1966年の段階で予測していた事になる。このSFが現時点で翻訳・出版されたのは、米国最初の大統領オバマが再選された現在の時期に合わせて出版を行うことによる、話題受けを狙ったという言い方も出来るかもしれない。

さてストーリーの方であるが、時は西暦2080年。世界は人口爆発に悩まされており、避妊薬は無料となり、売春は合法化されている。また人口爆発に対処するため多くの人が「凍民」という名で人口冬眠させられている。合法化された売春は<きんのとびら>と呼ばれている娼館衛星で行われているという突飛な設定である。

そのような世界でジェームス・ブリスキンは時期米国大統領候補として出馬し、原色大統領と激しい選挙戦を戦っている。選挙戦に勝利するためには人口爆発に対処する有効な政策を打ち上げる事が有効である。

ちょうど選挙戦に合わせるかのように時間理論を応用して作られた超高速移動機の故障により生じた亀裂が、地球と他の異次元世界を結ぶ通路として働く事が発見される。そしてその亀裂の向こう側の世界はパラレルワールドの地球であり移民が可能らしい。

これを知ったブリスキンはこれを使って地球の人口冬眠している人々を目覚めさせ、並行宇宙の地球へ移民させるという人口爆発問題に対する有効な政策を提案することにより、自分の選挙活動に有利に働くよう利用しようと考える。

(続く)