シンガポール通信ー岩崎育夫「物語 シンガポールの歴史」中公新書3

現在の支配政党である人民行動党は、シンガポール自治政府を認められた時点で設立されたのであるが、その内部における英国式の政治体制実現をめざす英語教育集団と共産主義的政治体制実現をめざす華語教育集団の対立が、なぜ英語教育集団の勝利に終ったのかというのは大変興味ある点である。ここには現在の特異なシンガポールの政治体制につながる鍵が潜んでいると思われる。

当初この二つの集団は、シンガポール自治政府を樹立するという大目的のために協調するのであるが、後にそのイデオロギーの違いにより対立関係となる。当初この二つの集団はリー・クアンユーの政治的手腕によりまとめられる。しかしその後、彼は華語教育集団を政治的に弾圧することによりその力を弱める事に成功したと、「物語 シンガポールの歴史」には書いてある。

しかし、シンガポール国民の最大勢力である中国人をその支持勢力としていた華語教育集団が、それほど容易に弾圧されて力を失うものだろうか。それがこの本を読んだ時に私が感じた最大の疑問である。私なりに考えてみるとそれは以下のような理由に基づくのではないかと思っている。

一つは華語教育集団のイデオロギーである共産主義に対する共鳴が、その集団の中でどの程度強かったかということである。シンガポールの多数を占める中国人は、もちろん本国が共産主義政権になった事を注目はしており、一部には共産主義に対する強力な支持者がいたであろう。しかしながら中国人の多くは経済的成功を求めて中国から出稼ぎに来ていた人達であり、中国が共産化されて以降もシンガポールにとどまり経済的成功を実現する事が、彼等の人生の主目的であったと考えられる。つまり彼等の大半はプラグマティストであり、本当の意味での共産主義者ではなかったのであろう。

もう一つは隣国マレーシアとの関係であろう。英国から先に独立をはたしていたマレーシアは、シンガポールと距離的にも近く密接な関係にあった。そのためリー・クアンユーは、シンガポールがマレーシアの一部に加わる事によるシンガポールの独立を当初は計画した。それはもちろん、シンガポールのような天然資源も皆無である小国が独立国として存続できる事の困難さを彼が知っていたからであろう。

当初このような思惑はマレーシア側の思惑と一致し、1963年にシンガポールマレーシア連邦の一員となる。ところが2年後の1965年にはこの関係は破綻し、シンガポールマレーシア連邦から追放される。なぜこのような短期間で両国間の関係は破綻したのだろう。これは、すでに貿易の中継地点として経済的成功をおさめていたシンガポールが、マレーシア連邦の他の地域とはすでに異質の存在でありかつ独自の発言権を有していた事が大きな理由であると考えられる。つまりマレーシア連邦側は、自国の中では地理的にも人口的にもごく一部を形成しているに過ぎないシンガポールが、その経済力の強力さの故にマレーシア全体の指導権を握ってしまう事を恐れたのだろう。

その結果として、シンガポールは小国でありながら他の国々に列して国家として存続する事を決断せざるを得なかったのである。そしてそのことが、他の国々では民主主義をとるか共産主義をとるかといったイデオロギーが国家成立の基本条件となっているのに対し、経済的成功を第一目標としイデオロギーを二義的とする世界にも稀な政治体制を実現したシンガポールの特異性を実現させたのである。

この政治体制は、「シンガポール株式会社」などと揶揄される事が多い。しかしながらそれは、シンガポール自身が決断したというより、シンガポールを自国に取り込む事の有利さと不利さを天秤にかけ、結局はシンガポールを追放する事を決定した当時のマレーシア連邦のトップの決断による所が大きいと考えられる。

もちろん一党独裁を基本とし経済的成功を最大目的とする希有な政治体制を実際のものにしたことには、リー・クアンユーのカリスマ的な政治力によるところが大きいだろう。しかしながらこの本からシンガポールの歴史を知ると、それがリー・クアンユーの本来の個人的な政治理念であったというより、マレーシアとの関係によって有無をいわせず選択させられたものであるという感じを強く受けるのである。

その後のゴー・チョクトンおよび現在の首相であるリー・シェンロンは、いくつかの柔軟さを取り込んだとはいえ基本的にはリー・クアンユーの政治路線を継承している。そして経済的成功が実現している限りはシンガポール国民もそれを支持しているように見える。しかし同時に最近の総選挙の結果を見たりしている限り、現在の政治体制に対する国民の不満も少しずつ増加して来ているようである。今後シンガポールの政治体制はどうなるのだろうか。私たちは大きな興味を持ってそれを見守って行きたいものである。