シンガポール通信ー岩崎育夫「物語 シンガポールの歴史」中公新書2

シンガポールが英国の植民地として出発した国であるにもかかわらず、多くの植民地で生じたような民族主義運動がシンガポールでは起こらなかった。それは、英国がほぼ無人の島であるシンガポールを植民地化し、それに伴い中国やマレーシアから流入して来た移民が国民を形成していたからである。つまり、植民地政府と出稼ぎの移民からなる国家がシンガポールの当初の姿なのである。

この状況は、第二次世界大戦に伴う日本軍のシンガポール占領まで続く。1942年から1945年までの日本軍占領時代、日本軍はシンガポールの国民を厳しく統治し、特に中国戦線での中国人の抵抗に手を焼いていた日本軍は、数千人とも数万人ともいわれる中国人の大粛正を行った。

このことは、戦時中を覚えているシンガポール人特に中華系のシンガポール人の脳裏にははっきりと刻み込まれているであろう。現在のシンガポールの国民が大半が戦後世代になったとはいえ、この事件が彼等にも記憶として伝えられている事は確かであろう。現在シンガポールに住んでいる私たち日本人は、普段はそのようなシンガポール人の反日感情というものに出会う事は無いが、十分に心しておくべきであることは当然といえよう。

それとともに、この日本軍による過酷な統治が、それまで民族意識というものを持たなかったシンガポール人の間に民族意識を生み出したとこの本では記述してある。ある意味での歴史の皮肉な面であろう。

戦後のシンガポールは再び英国の統治下に入るのであるが、それ以降の歴史は、シンガポールが1965年に独立するまでの歴史と独立国家として経済的発展を遂げたそれ以降の歴史とに大きく分かれるであろう。また、独立以降の歴史は、リー・クアンユーが首相であった1990年までの歴史と、ゴー・チョクトンおよび現在の首相であるリー・シェンロン(リー・クアンユーの長男)が首相である時代の2つの時代に大きく分かれると考えられる。

日本軍の統治から解放された1945年から1965年の独立までもシンガポールはある意味波乱の歴史を経験している。まず英国から内政自治権を獲得し、自治政府を設立する。ここで重要なのは自治政府設立に際してのシンガポール民族主義運動の間での対立関係である。民族主義運動の一つの柱は、英国留学などを経験し英国の統治を引き継ぎ英語をベースとして英国式の政治方式をシンガポールに導入しようとするいわば英語教育集団である。この集団を代表するのがリー・クアンユーである。

もう一つの柱は、中国からの移民を中心として華語(中国語)を話し、中国式の国家いいかえると共産主義を基本とした国家をめざしてシンガポールを統治しようとする華語教育集団である。この二つの集団はイデオロギーが異なるので、当然対立するのであるがリー・クアンユーがその二つの集団をまとめて、人民行動党による最初の自治政権を築いた。そしてその後生じた人民行動党内部の分裂と対立に最終的には英語教育集団が勝利し、それが現在の人民行動党によるシンガポールの政治体制につながって行く事になる。

ここで注目すべきはイデオロギーの異なる二つの集団をシンガポール自治政府という旗印の下にまとめあげたリー・クアンユーの政治力であろう。現在のシンガポールでは彼は建国の父として尊敬さらには崇拝されているが、たしかに彼なしにはシンガポールの独立と現在の繁栄はなかったといっていいであろう。

もう一つ注目すべきは、すでに当時のシンガポールは中国人が多数派を占めており、英国帰りのエリート(リー・クアンユーもその一人である)を中心とした英語教育集団はいわば社会の上流層を形成していただけであり、それに対して華語教育集団の方が一般大衆を含めた多数派であったのに、なぜ最終的には英語教育集団が権力闘争の勝利し、現在のほぼ人民行動党による一党独裁的な政権へとつながったのかということであろう。

ここに、現在の自由主義国歌の中でも特異なシンガポールという国家が生まれた原因が潜んでいると考えられる。

(続く)