シンガポール通信ーニコラス・ウェイド「5万年前」を読む:なぜ人々はつながる事を望むのか

先週末の週末を利用してニコラス・ウェイド著「5万年前」(イースト・プレス)を読みはじめた。以前にもざっと読んだ事はあるのだけれども、今回はもう少しまじめに読んでいる。

現在、これまでこのブログにかいた事などをベースとして、メディアの歴史で起こって来た事、そしてこれから起ころうとしている事をまとめてみようと考えている。もちろん出来たら出版したいと考えているけれども、まずはある程度内容をまとめる必要がある。

これまでのメディアの歴史を振り返ってみて、現在起こっている事を理解しようとしたとき、文字の発明、プラトンによる西洋哲学の発祥、印刷術の発明、そして電話・映画の発明などが極めて大きな意味を持つ事を私なりに理解できたと思う。ところがこれらのメディアの利用を通して見えてくるのは、人々が常につながっている事を欲しているという事実である。これは一体どこから出て来ているのだろう。これがメディアの歴史を考えている時に頭に浮かんでくる素直な疑問である。

常につながっている事を欲するのは人間の基本的な欲望であると、私の前著「テクノロジーが変えるコミュニケーションの未来」には書いたけれども、それではその基本的な欲望は一体どこから出て来ているのだろう。それを知るためには、人類の長い歴史を一応は知っておく必要があるのではないか。それがこの本を読んでみようと思った理由である。

まず現在生じている事を観察してみよう。スマートホン・タブレットPCなどのデバイスFacebookTwitterなどのアプリケーションが急速に普及しつつあるのは、誰もが認めるところだろう。人々はこれらのメディア(これらをまとめて呼ぶ名称としては、やはりメディアという言い方が適当だと思う)を使って何をしているのだろう。結局その大半の利用法は、メールやソーシャルネットワークなどを使って、他の人とのコミュニケーションを行っていることだといえるだろう。

スマートホンの普及以前から、日本では携帯電話を使った電子メールの使用は広く普及していた。それに伴い、片手だけで携帯を持つと同時に親指のみを使って高速にテキストを入力する親指入力法が、日本では広く普及した。これはある意味で、手先の器用な日本人によくマッチした入力法だと言えるだろう。

一方で欧米などでは、番号入力用のテンキーにアルファベットを割り振った携帯用のキー配列が一般的であるが、日本人ほど手先の器用でない欧米人にとっては従来型携帯を用いたメールの送受信時の操作は煩雑であり、日本ほどは携帯を使ったメールの送受は普及しなかったといえるだろう。(Blackberryなど小型のアフファベットキーを装備した携帯電話が一時ビジネスマンのツールとして広く普及したのは、従来型キーを使った入力法が煩雑である事と深く関係していると思われる。)

ところが、インターネットアクセス機能を持ちタッチ型インタフェースを備えたスマートホンの普及は、状況を大きく変えてしまった。タッチ型インタフェースは従来型のキーによる操作に比較して操作法が簡単であるため、受信メールのチェックが極めて容易に行えるようになった。また画面上のバーチャルキーボードを用いたタッチ型の入力は、これもキーによる入力に比較して容易である事から、スマートホンを用いたメールの送受信は世界中の人々にとって日常用いられるコミュニケーションのツールになったのである。

このあたりが、従来型携帯と親指入力が広く普及していた日本でスマートホンの導入が遅れた大きな理由であろう。そしてそのために、日本においては従来型携帯の利用が長く続き、スマートホンの導入が諸外国に比較して遅れた事を「ガラパゴス現象」と呼んだり、従来型携帯を「ガラパゴス携帯」略して「ガラケー」となどの自虐的に呼んだりする現象が生じた。

ちなみに、「ガラパゴス現象」とか「ガラケー」という名称は日本国内に特有のものであり、海外の人たちにはよほどの日本好きか日本オタクでない限り、基本的には通用しない。そのような言葉を自分たちで作り出し、そしてそれを自虐的に使うというのはいかにもオタク好きの日本人らしい行動ではないだろうか。

少し話題がそれたけれども、日本において先行して普及した「いつでも、どこでも」携帯を用いてメールをチェックしメールを送るという行動は、現在は世界中の人々が毎日行っている行動になって来ている。ここシンガポールで毎日私が利用するNUSの学内バスでも、バスを待っている人たちやバスに乗っている人たちの半数以上はスマートホンにいわば「かじりついている」状態である。

(続く)