シンガポール通信ー村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」5

先に述べたように、「ハードボイルド・・」における主人公である「私」は、老人によって人為的に作られた新意識核を用いた処理から普段行っている意識核を用いた処理へとスイッチを元に切り替える事ができなくなっている。そのことは、今後は「私」は新意識核を自分自身のアイデンティティとして生きて行く必要がある事を意味している。「ハードボイルド・・」の世界にいる「私」の脳の処理が新意識核を中核としたものに移行するのに伴い、主人公がそれに順応するための永い眠りにつく所で表の「ハードボイルド・・」の世界での物語は終っている。

当初この部分を読んだ時、私は強い違和感を感じた。老人によって作られた新意識核は、しょせんは人工物である。そうすると、新意識核を心の中核において生きなければならない主人公は一種の人造人間になる、言ってしまえば人間らしくなくなる事を意味している。これでは、裏の世界である「世界の終わり」におけるハッピーエンドと、つじつまが合わないではないか。ここが、この小説の終盤にさしかかって私がもっとも強く感じた疑問である。もちろん村上春樹の平易で説得力のある文章をそのまま楽しんでいればいいのであるが、どうしてもこの疑問は最後まで残って消えなかった。

さて読み終わってから、この疑問にどう答えたものかと考えていたのであるが、次のように考えざるを得ないのではないかというのが、現時点での私の理解である。つまり主人公である「私」が本来心の中に持っている意識の核は、なぜかひどく機械的で暖かみのないものだったと考えてみてはどうだろうか。なぜ主人公の本来のアイデンティティ機械的で暖かみの無いものになっているのかは、本小説の中では詳細には述べられていないのであるが、多分主人公のこれまでの境遇や人生が反映されているからであろう。

ところが、「老人」が主人公の意識の核を分析しそこにある種のストーリーもしくは秩序を入れる事によって、老人の作り上げた新意識核は実は「私」の意識核に欠けていた人間らしさもしくは心のようなものを入れる事に成功したと解釈できないだろうか。もちろんとはいいながら、人為的に作られた新意識核を使いこなすには脳がその新意識核に順応して行く必要があり、ある程度の時間がかかると考えられる。そうすると、主人公である「私」がつく眠りは、決して死を意味しているのではなく、新意識核を中核にした処理に脳全体を順応させるための眠りであるということになる。言い換えるとその眠りは、主人公が人間味の欠けたアイデンティティを核にした「私」から、論理的ではあるが同時に人間的な側面をも強く持った新しい「私」に生まれ変わるためのものなのだということになる。

とまあこのように考えると表の世界におけるエンディングもハッピーエンドであり納得できる終わり方であると言えない訳ではないが、少々無理をしているという気持ちが否めないのではないか。先にも言ったように、村上春樹は細部の表現は大変上手い作家なので、小説を楽しんでいる間は特に違和感は感じない。また上のような論理的な説明を施せば、小説全体としてのストーリー展開も論理的には説明できる。しかし単純にストーリーを楽しむという姿勢と、ストーリー展開を論理的に解釈して納得するというその中間あたりの部分で、どうも違和感が残ってしまう。この小説を読んでどうも終わりが今ひとつ納得できないと感じるその感覚はこのようなところから出ているのではあるまいか。

多分多くの読者がそのように感じているのではあるまいか。このあたりも、村上春樹の作品を文学作品として高くは評価しない評論家・識者がいる理由かもしれない。まあもう少し彼の他の作品を読んでみる必要があるということなのだろう。