シンガポール通信ー村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」4

老人はこれ以上計算士の犠牲が出ないよう、主人公を使ってより安全な方式の開発を組織に隠れて行っている。そのためには、本来暗号化の際にのみ使われるべき新意識核の処理のスイッチを確実に元に戻すための手段が必要である。ところがその手段が、主人公を奪還しようとして襲って来た「組織」や「やみくろ」のために失われてしまう。

そのままだと、主人公は老人によって人為的に作られた新意識核を精神のもっとも奥底に持つ人間になってしまう。それは先に言ったように、心のない人間であることを意味している。このような状況の基で、さてそれでは新意識核における処理を元に戻す手段を失った主人公の心は永遠に失われるのだろうかというのが、本小説のストーリーの表の部分である。

そしてそれと並行して、本小説のもう一つのストーリーが「世界の終わり」で繰り広げられる。「世界の終わり」は、先に述べたように主人公の意識の核の部分を具現化したものである。そこは、高い壁に囲まれた荒涼とした場所として描かれている。

高い壁でかこまれた「世界の終わり」の中心にある街に住んでいる人達は、時の止まったような毎日を送っている。そしてその街には一角獣が集団で住んでおり、これらの一角獣は人々の記憶を食べ続けている。つまりこの街の住人は、何の目的もなく感情もなく記憶もなく生きている。いいかえると、心を失った状態で生きているのである。

これは先に述べたように、主人公が子供の頃の境遇や出来事に影響を受けたためか、心の奥底を常に閉じた状態にしており、かつそこでは感情などの人間的な心の動きを極力起こさないようにして生きて来た事をメタフォリカルに示している。さてそのような「世界の終わり」に、主人公である「僕」がたどりつく。「僕」は世界の終わりの入り口で自分の影から引き離され、この街の中で街の人達と同化して生きて行こうとする。これは表の世界の主人公「私」からすると、計算士として組織のために働く事に疲れ、夢と希望をなくしかけている事を示している。

「世界の終わり」の街の中心にある図書館には、死んだ一角獣の頭蓋骨が保管してある。これらの頭蓋骨にはこの街に住んでいる人々の記憶が蓄積されている。「僕」は、一角獣の頭蓋骨に触れる事により人々の記憶をよみがえらせ体験するという仕事に就く。心を失った人々の記憶をよみがえらせ追体験するという事は,自分自身が心のない状態になれて行く事であり、別の言い方をすると自分自身が徐々に心を失って行く事につながる。そして「世界の終わり」における主人公「僕」が心を失ってしまえば、現実世界の「ハードボイルド・・」における主人公「私」は、夢と希望をなくしたいわば生きる屍となって残りの人生を生きて行くことになる。

ところが主人公である「僕」はこの街やその周辺をさまよううちに、この場所を外部から隔離する壁の近くの森の中には、心を捨てきれずに街の人々と離れて暮らしている人達がいる事を知る。そしてまた、図書館で彼の仕事をサポートしてくれている少女が心を取り戻したいと考えている事も知る。この少女の母親は、心を捨てきれなかったために街から追放され森の中で暮らしている。そのためこの少女にも心の一部が残っており、それが彼女が心を取り戻したいと考えている理由なのだろう。

ある晩一角獣の頭蓋骨から街の人達の記憶を読み取っている時、主人公である「僕」は人々の記憶の中に残っている心が、少女の心も含めて明るく輝き始めるという奇跡に出会う。そして「僕」は、一緒にこの「世界の終わり」から逃げ出そうと誘って来る自分の影の誘惑を振り切り、この街にとどまり人々に心を取り戻すことに自分の生活を捧げる事を決心する。

これはこれでハッピーエンドである。またこの「世界の終わり」でのストーリーは、それと対応した「ハードボイルド・・」の世界におけるストーリーとは切り離して独立させても、十分に幻想小説として成立できるほど質の高いものであると私には思える。村上春樹世界幻想文学大賞を受賞しているが、それもうなずけるほどの完成度の高さを「世界の終わり」におけるストーリーは持っている。

これは「海辺のカフカ」や「1Q84」にも共通して言える事である.特に「1Q84」は幻想小説としての側面を強く持っている。幻想小説はSFとしての側面ももっている。たしかに1Q84は書店のSFのコーナーに並んでいても違和感はあいであろう。

と同時に本小説においては、裏の世界である「世界の終わり」における出来事は表の世界である「ハードボイルド・・」と密接に対応している必要がある。さてそれでは、表の世界「ハードボイルド・・」ではそれに対応して何が起こるのであろうか。