シンガポール通信ー村上春樹「海辺のカフカ」:ナカタさんとホシノ青年

この物語を田村カフカの視点から見ると、それは彼の成長物語であると指摘した。しかしこの小説は、種々の人物や世界の構成が表と裏、陽と陰などの形で関連し合っている。そしてそれが、幹だけを取り出すとある意味で単純なストーリーのこの小説の構成を複雑にし、さらには面白くしている。そしてそのような構成にする事により、細部の描写に優れている作者村上春樹の能力も発揮できているのだといえる。

その点に注目しながら他の登場人物を見て行こう。まずはこの小説の副主人公とでもいうべき、老人ナカタさんに注目してみよう。ナカタさんは、子供の頃引率の女性の先生や他の子供達と一緒に行った遠足で、他の子供達と一緒の謎の意識不明状態になる。他の子供達は、しばらくすると意識不明状態の間の記憶を失っているだけで回復する。ところが彼だけはなかなか意識が回復せず病院に入院する事となり、意識を回復した時にはそれまでのすべての記憶すべてとさらには読み書きなどの基本的な知的能力も失ってしまう。

したがって彼は人並みの生き方が出来ず、国からの障害者に対する補助で細々と生活している。しかしながら猫と話が出来るという特殊能力を持っており、この能力を使って行方不明になった飼い猫を探し出す仕事で小遣いを稼いでいる。

ある日ナカタさんは、行方不明になった猫の捜索をしている時に、ジョニー・ウオーカーと呼ばれる人物に出会う。彼は猫を殺しその魂を集めることを仕事としている。(実はジョニー・ウオーカーは、田村カフカの父親の別の姿である。)ジョニー・ウオーカーの家に連れて行かれ、彼が次々と猫を殺しその心臓を食べて行く様子を見、さらには自分の知り合いの猫や探している猫が殺されそうになった時、ナカタさんは思わずナイフでジョニー・ウオーカーを殺してしまう。そしてこれは、主人公田村カフカが意識を失っている間に幽体離脱して父親を殺してしまう場面の別の姿でもある。

彼は交番に自首するのであるが、もちろん警官は彼の言う事を信じてはくれない。彼は困ってしまうが、なぜか西の方角に行かなければという強い直感を感じる。そしてその直感に従い、ヒッチハイクでトラックを乗り継ぎ西に向かう。途中でホシノという青年に出会い、彼がナカタさんをなぜか気に入ってしまい、ナカタさんの直感に従って、二人で四国の高松に向かう。そしてこれもまたナカタさんの直感に従って、主人公田村カフカ、佐伯さん、そして大島さんがいる図書館へ向かうのである。

四国は四十八カ所の霊場霊場めぐりのお遍路さんで知られている。いわばあの世とつながった場所である。この小説で、田村カフカやナカタさんの向かう先として四国を設定しているのは、そのような理由によるのだろう。いわば四国は、この世である本州と田村カフカたちが向かうあの世(冥府)との境界にある場所だという事が出来る。

佐伯さんは小さかった頃からの恋人を青年時代に亡くしてしまい、それ以降はこの世への未練を失い、あの世との中間地点である四国の図書館の館長をして生きている。佐伯さんの下で働いている大島さんは、一見男性であるが実は女性であり性障害を抱えており、その意味でこの世との交渉を断ちあの世との中間地点に住んでいる人物である。主人公田村カフカは、父であり敵である人物から逃げ出して、つまり現実(この世)から逃げ出してあの世との中間地点である四国に引き寄せられ、この図書館にたどり着くのである。

それではナカタさんはなぜ、この世とあの世の中間地点である四国へ向かうのだろうか。実は、ナカタさんがこの小説の中で持っている役割は極めて大きい。彼は前に書いたように、田村カフカの代理として彼の父親を殺すという役割を持っている。さらにはこの世とあの世の中間地帯に住んでいる人たちに、あの世への入り口を開けてやる役割を持っている。その入り口を通って田村カフカは冥府へ降りてゆき、成長して再び中間地帯である四国に戻ってくる。そしてさらにはこの世である現実世界に戻るのである。

またナカタさんは、すでに過去の世界に生きている佐伯さんが冥府へ降りる手助けをする。そして最後には、自分の果たすべき役割を果たし終え、障害者として生きて来て現実世界では普通の人間として受け入れられない彼自身も、冥府へと降りて行くのである。

もちろん彼一人でそのような大役を果たす事は出来ない。そのため、彼を四国に送り届けるトラックの運転手であるホシノ青年が登場する。ホシノ青年はいわばナカタさんをサポートする道化役である。トラックの運転手をしている全く普通の青年である。しかしなぜか四国に向かわなければというナカタさんの強い意志にうたれて、彼と行動を共にする。

(続く)