シンガポール通信ー村上春樹「1Q84」:宗教法人さきがけ

いよいよこの小説最大の謎ともいうべき、「リトルピープル」とその手先もしくは実行部隊とでもいうべき宗教法人「さきがけ」について考えてみよう。

宗教法人「さきがけ」がオウム真理教をモデルにして創作されているのは明らかである。さきがけは当初は普通の開かれた宗教集団であったが、次第に閉鎖性を強め山梨県に外部の人から隔離された宗教法人の本拠地を設置している。またその集団のリーダーもしくは教祖とでも言うべき人物(実はふかえりの父親である人物)が、物体を浮遊させるなどの超能力を持っている事が描かれている。

このように、さきがけとオウム真理教の間にはいくつもの類似点がある。相違点は、オウム真理教サリン事件を引き起こし日本中を恐怖に陥れたのに対し、さきがけはこの小説「1Q84」の時点ではまだ世の中にいわゆる直接害をおよぼす事件が引き起こしていない点である。

さきがけから分離した「あけぼの」と呼ばれる急進派が、数年前に警官隊と銃撃戦を引き起こした(これは「浅間山荘事件」をモデルにしているのだろう)ということにはなっている。しかしながら、それはあくまでさきがけの中の急進派が、さきがけから分かれてあけぼのという急進的革命集団を作ってから引き起こしている事件であって、さきがけとは基本的には関係がないという設定になっている。

後でも論じるが、この物語に出て来る人物・集団は基本的にはいずれも悪ではないように見えるのである。後でも論じるが、これがこの小説最大の謎だと私には思われる。どうも村上春樹という作家は、性善説によって立つ作家なのではあるまいかと私は思っている。

さきがけは、超能力を持ち謎に包まれたリーダーもしくは教祖によって率いられている。このリーダーこそが、全ての悪を引き起こしている張本人であるかのように、この小説の前半のストーリーは設定されている。そしてそのリーダーを青豆が殺害する場面が、この小説の前半の山場になっているのである。

このリーダーは、自分の娘であるふかえりも含めて何人かの少女を自分の回りにおいておき、霊感を得るためと称してこれらの少女に対して性的な暴行を加える。それがこの集団から逃げ出したふかえりやもう一人の少女の証言でわかったことにより、青豆がリーダーを殺害しようと決意するに至るのである。そして、夫などに迫害を受けた女性をかくまっているセーフハウスを運営している老婦人やそのボディガードなどの助けによって、青豆がその殺害を実行するわけである。

ところがマッサージを行うと称して青豆がそのリーダーに接触してみると、彼は既に青豆が自分を殺害するために来る事を知っており、さきがけという集団を率いて来て精神的にぼろぼろになりかけている彼は、むしろ青豆に殺害してもらう事を依頼するのである。

この場面はこの小説の前半の山場ではあるが、ここまで読んで来た読者は少し戸惑うのではないだろうか。さきがけのリーダーが全ての悪の根源であるというようにこの小説のストーリーの設定からは思わされ、そのリーダーはまさに「邪悪な存在」であろうと予想して来た読者は、この場面を読んである意味で肩すかしをくらわされるのである。

さきがけのリーダーは、自分の意思でさきがけを率いて来たというより、リトルピープルの指示によって行っている事や、その困難な仕事を遂行して来たために精神的にも崩壊しかけている事などを、青豆に語る。さらに彼は青豆と天吾の関係も知っており、天吾にリトルピープルの害が及ばないようにするには、青豆の自己犠牲が必要であるなどと説くのである。どうもさきがけのリーダーたる彼は、「邪悪な存在」ではないようなのである。それでは一体誰が邪悪な存在なのだろう。