シンガポール通信ー村上春樹「1Q84」:青豆と天吾

ジョージ・オーウェルの「1984」に出てくるビッグブラザー村上春樹の「1Q84」に出てくるリトルピープルが、対比する存在として描かれているのかどうかというのは、興味深い問題である。実は「1Q84」におけるリトルピープルの存在は、悪か善かも含めてかなり謎に包まれている。そしてそれが、この小説に魅力を与えているという言い方も出来る。しかしこの事はまた後で取りあげる事にしよう。

1Q84」の背景は、現実の1984年の世界と並行して存在しているパラレルワールド1Q84である(作者はパラレルワールドではないと物語の中の人物に言わせているが、パラレルワールドと考えていいだろう)。そこでは、現実の1984年の世界とすべての物事がほぼ同じように進行しているが、異なっている点がいくつかある。細かいところでは警官の制服が異なっていたり、彼等の持っている拳銃がリボルバーではなくてオートマチックであったりする。

また、オウム真理教をモデルにしたと考えられる「さきがけ」という宗教団体が出てくるが、1Q84の世界ではそこから分裂した「あけぼの」という急進的な組織が警官隊と数年前に銃撃戦を行い、世間を騒がした(それが警官の制服や拳銃が更新された理由である)という設定になっている。そしてなによりも、リトルピープルが存在している。そしてこれらすべてを象徴的に表現するものとして、本来の1984の世界では1つである月が1Q84の世界では2つ存在している。

1Q84はシンプルに読めば、この物語の主人公である二人の男女(男性は「天吾」で女性は「青豆」)のラブストーリーとして解釈する事が出来る。二人はかって1984年の世界で小学生の時代に同じクラスの同級生であった。天吾は、NHKの集金人である父親に連れられて、毎週末NHKの視聴料を支払っていない家庭に集金にまわらされるという生活を送っていた。また同じように青豆も、ある宗教団体に入っている両親の布教活動のために、毎週末両親と共に各家庭をまわるという生活を送っていた。
このような境遇にある二人は、他のクラスの子供達と異なる生活を送っているため、友達も出来ず孤独な小学校生活を送っていた。それが二人を無意識下でつないだのか、ある放課後誰もいない教室で青豆が天吾の手を握りしめるという行為にでる。二人はその後異なる生活を送るわけであるが、この経験が二人の心に深く残っており、常に心の底で相手を求めているという設定になっている。

その後なぜかあるきっかけで、二人は別々に1984の世界から1Q84の世界に入り込む事になる。二人は徐々にそれが1984の世界ではない事に気付く。それは何よりも、二人には2つの月が見えるということに象徴されている。そして二人が別々の形で宗教団体「さきがけ」と関わり合いが出来ることによって、二人が再び見えない糸でつなぎ合わされ始める。そして再会を果たした二人は、青豆が1984の世界から1Q84の世界に入り込んだ道を逆に辿って本来の1984の世界に戻って行く。

とまあ大筋のストーリーだけを取り出すと、このように単純なものになる。もちろんこれだけだと、この小説の持つ魅力を説明する事にはならない。それでは、どこにこの小説の魅力があるのだろう。一つは、主人公である「天吾」と「青豆」のキャラクタや、その表現にあると考える事が出来る。

天吾と青豆の二人の主人公に共通する特徴として、常人にはない能力を持っていながら普段の生活や行動は一般の普通の人と変らないというところがあげられる。天吾は子供時代は数学の神童と言われる頭脳を持ちかつ柔道でも学校で主将を務めるほどの身体能力をもちながら、現在は予備校の数学教師をして収入を得ているという生活をしている。つまり表面的にはどこにでもいる一般の人間である。ところが同時に小説家になりたいという夢を持っており、仕事の合間に小説を書くという作業を続けている。そしてその作家としての能力は「ふかえり」と呼ばれる少女の書いた未完成の小説をゴーストライターとして書き直して、その少女に新人賞を取らせるというレベルの力を持っている。しかし外観はどこにでもいる普通の青年であり、その心理描写からもごく普通の青年という設定になっている。

これに対して青豆は、優れた身体能力を有しており、スポーツジムのインストラクターを務めているが、実は首の後ろの急所をアイスピックで突く事により人を殺す事を特技としているいわば女殺し屋である(なんだか必殺仕事人をモデルにしているようである)。しかしながらその外観は通常の若い女性であり、また心理描写からもごく一般の女性である。

(陰の)新人賞受賞作家であり通常は予備校の数学教師である天吾と、女殺し屋であり通常はスポーツジムのインストラクターである青豆という主人公の設定は、スーパーヒーローの活躍を描く通俗的な小説にありがちな設定である。しかしながら1Q84では、あくまでその心理面では彼等は普通の男性と女性であり、心の底でお互いを求め合っているという設定になっている。かといって心理的に図太いとか弱いとかいうわけではない。あくまで普通なのである。

この落差がこの小説の大きな魅力になっている事は間違いない。かってスーパーヒーローでありながらクールな心理の主人公に対して「ハードボイルド」という呼び方をした事があったが、この小説の主人公特に青豆は日本的な意味でのハードボイルドという感覚を読者に与えてくれる。