シンガポール通信ー村上春樹「1Q84」

(以下の感想文は「1Q84」のネタばれが含まれていますので、まだ読んでいない方は注意して下さい。)

私はあまり現代小説は読まないし、特にベストセラー小説はどちらかというと意識的に読まないようにしてきている。別に取り立てて理由があるわけではないが、世の中で騒がれているものに対して少し皮肉っぽい目を向けたいという天の邪鬼の心境だろうか。

村上春樹は、ノーベル賞候補作家という事で、昨年のノーベル賞はほぼ受賞が決まりであるかのように喧伝された。その事は彼が世界的に認められている作家である事を意味しているが、同時にベストセラー作家ということもあって、私は彼の作品はこれまで読んだ事がない。

1Q84」は2009年に発表された彼の作品で、たちまちベストセラーになり、当時は書店に平積みされているのをよく見かけたものである。しかし上に述べたようないわば私の哲学に従って、書店でそれを見ても横目で見るだけで通り過ぎることにしていた。

ところが今回パートナーの土佐さんが、長春のアニメーション関係の大学を一緒に訪問した際に、6冊の文庫本になっている「1Q84」を持参してきて、面白いからぜひ読んでみたらという。ベストセラー小説は読まないという私の哲学に従って、当初は読まない事にしようと思っていた。しかし、ベストセラーであったのはすでに数年前であり現在はそうではない事や、少し彼に興味があった事から私の哲学には反するのだけれども読んでみる事とした。

村上春樹に興味があるのは、彼が世界的に認められている作家である事である。日本の作家で世界的に知られている作家の多くは、表現やストーリーが極めて日本的である点において認められていることが多い。例えばノーベル賞作家である川端康成等がその代表例だろう。

それに対して村上春樹の場合は、その作風がインターナショナルな部分が国際的に認められているようである。シンガポールの私の知り合いでも、村上春樹が好きだという人が数人いる。彼の小説がインターナショナルに認められているのはどのような点なのかというのも、私がこの小説に興味を持った点である。

そしてなによりも、長春からの帰りに、長春や北京の空港で大幅に遅れた飛行機を待っている時間や飛行機の中の時間がたっぷりあった。最初はそれほど期待していたわけではないが、読み始めると引き込まれて一気に読み終えた。確かに読者を引きつける力を持っている小説ではある。

1Q84」が、ジョージ・オーウェルが1948年に書いた小説「1984」を意識して書かれているというのはよく知られているところである。「1984」はかなり昔に読んだ事があるが、SFの名作として知られている。「1984」は全体主義が支配している1984年の未来を描いており、そこではビッグブラザーと呼ばれる機械(今ならコンピュータ)がテレスクリーンと呼ばれる双方向のテレビを通して常時人々の行動を監視しており、思想の自由のない暗いそして恐怖に満ちた未来が描かれている。いわばビッグブラザーは「邪悪な存在」として描かれているのである。

ということは「1Q84」は、オーウェルが1984に予想をした未来を現在の目から見て描いたものではないだろうかと予測される。機械に人間が支配される暗い未来というのは、映画「マトリクス」でも描かれているように、SF映画やSF小説の一つの定番である。そして現在は、スマートホンなしではいられない人々、Facebookなどのソーシアルネットワークで実現されているある意味バーチャルなのに妙に明るい人々のコミュニティなど、暗さを表現しようとするとそれこそいくらでも種のある社会に私達は生きている。

読んでみてたしかに「1Q84」はオーウェルが描こうとした暗い社会を描いていると言うことはできる。「1984」のビッグブラザーに対して、「1Q84」ではリトルピープルという存在がでてくる。明らかにこれはビッグプラザーを意識したネーミングだろう。そしてリトルピープルが引き起こすいくつもの不可解な出来事(もしくは奇跡とでもいったらいいだろうか)は、「1Q84」で描かれている世界に暗い恐怖に満ちた印象を与えようとしていると言えるかもしれない。

しかし、全体としての小説から受ける印象は、決して「暗い恐怖に満ちた世界」であったり、それを支配している「邪悪な存在」を感じさせるものではない。「1984」の結末が暗い救いのないものであるのに対して、「1Q84」は続編の存在を暗示しているようではあるけれども、一応はハッピーエンドなのである。ここに「1984」と「1Q84」の決定的な違いがあると思われる。つまり「1Q84」はあくまで娯楽作品であることを意識して書かれているのである。

(続く)