シンガポール通信ーダニエル・ピンク(大前研一訳)「ハイコンセプト」2

さてそれでは「ハイコンセプト」の中を読んでみよう。目次を読むと以下のような章構成になっている。

第1部「ハイ・コンセプト」の時代(第1章:なぜ「右脳タイプ」が成功を約束されるのか、第2章:これからのビジネスマンを脅かす「3つの危機」、第3章:右脳が主役の「ハイ・コンセプト/ハイ・タッチ」時代へ)、第2部:この「六つの感性」があなたの道を開く(1:「機能」だけでなく「デザイン」、2:「議論」よりは「物語」、3:「個別」よりも「全体の調和」、4:「論理」ではなく「共感」、5:「まじめ」だけでなく「遊び心」、6:「モノ」よりも「生きがい」)

これだけを見るといかにも書店に一般に並んでいるハウ・ツーものにみえてしまう。刺激的な各章のタイトルによって読者の関心を惹こうというのは、いかにも通常のハウ・ツーものの取る手段である。目次だけを読むと、この本もハウ・ツーものかと思ってしまうだろう。私自身もそうであった。

最初の章では、FMRIを使って筆者自身の脳の活動のようすを実験してみた様子が記されている。この辺りは大半の読者に取ってはすでに知っている事であり、特段新しい点が見当たらない内容である。それを我慢して読んで行くと、米国で最近右脳の働きに注目が集まっているという内容が、いくつかの具体的な例と共に記述されている。

第2章では、「豊かさ、アジア、オートメーション」の3つの要素が、これまでの左脳中心もしくは論理中心の考え方に慣れている人たちにとっての脅威となっているという内容が述べられている。「豊かさ」の意味するところは、左脳中心の考え方は物質的な豊かさを生み出すには貢献したが、すでに先進国は十分豊かになっており、これ以上の豊かさいいかえると左脳中心の考え方は不要になるという事である。「アジア」の意味するところは、従来の左脳中心の仕事はアジアの低賃金国に移ってしまうだろうということである。そして「オートメーション」とは、コンピュータの発達が左脳中心の仕事の多くを代行するだろうという事である。これはたしかに現在米国で(そして日本でも)起こっている事であり、読者の興味は引きやすいであろう。

第3章では、これまでの左脳主体の労働いいかえるとナレッジ・ワーカーが重要とされた時代から、今後は想像力や他人と共感できる能力(それを著者はハイ・コンセプトと呼んでいるわけであるが)が重要とされる時代へと移るだろうという内容が述べられている。そしてハイ・コンセプトの具体的なものが、「デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい」の3つの資質であると述べられている。

ここまでの議論はある意味その通りなのであるが、しかしそれはすでに他の人たちによって提唱された考え方ではないのだろうか。もしくは私達日本人にとっては、ごくあたりまえの考え方なのではあるまいか。この本は2006年に米国で発売された際にビジネス部門のベストセラーになったとの事であるが、その時点ではまだ米国では刺激的な新しい考え方だったのだろうか。それから6、7年たった現在では、米国でもすでにこのような考え方はある程度広まっているのではないだろうか。

たとえば、スティーブ・ジョブスなどは典型的な右脳思考の人間であり、この本の提唱している「ハイ・コンセプト」を自ら実証している人間と考えられる。彼の伝記がベストセラーになったように、彼の生き方は現在では米国はもとより世界的にも認められ賞賛されているではないか。しかしこの本で述べてあるように、MBAに代表されるような左脳中心の考え方をベースとした人材が、特に米国ではごく最近まで最も求められる人材であった事も確かである。

とすると米国は変りつつあるのだろうか。TwitterFacebookは、この本の書き方に従えばいかにも右脳中心の考え方に基づいたコミュニケーションメディアだと私は思っているが、 Twitterが現れたのが2006年、Facebookの一般向けサービスが開始されたのが2006年であるから、偶然にもこの本の出版とほぼ同じ時期である。2000年代後半には米国において大きな変化が表面に出始めたという事だろうか。これは少し考えてみる必要があることかもしれない。

さて第2部の「この『六つの感性』があなたの道を開く」を紹介する余裕がなくなって来たが、各章の刺激的なタイトルの割には中身は大変まともである。それはそこで紹介されているのが、いずれも米国における新しい流れの実例だからである。それに対していわゆるハウ・ツーものの本というのは、筆者の考えもしくは筆者の経験にのみ基づいて独断的に書かれている内容が多いのではないだろうか。

その点この本は、米国を中心として筆者の主張を裏付ける実例が多く取りあげられている。いわば実証的な内容なのである。「機能」だけでなく「デザイン」とか「議論」よりは「物語」などの個々の内容は、私達日本人にとっては別に新しくはない内容であるが、そのような流れが米国で起こっている実例を知る事は私達にとっても刺激的である事は事実である。この本が単なるハウ・ツーもので終わっていないのは、そのような理由のよるのであろう。