シンガポール通信ークリス・アンダーソン「メーカーズ」

なかなか刺激的な本である。先週台北に出張した際の往復の飛行機内で一気に読破した。クリス・アンダーソンはワーアード誌の編集長で、「ロングテール」「フリー」などの著書により、ネットワーク時代のソフトウェア/サービスの新しいビジネスモデルを提案している事でよく知られている。

彼が「メーカーズ」の中で主張しているのは、彼がこれまで出張して来たネットワーク時代のソフトウェア/サービスでの新しいビジネスモデルが、物作り、言い換えると製造業の分野でも近い将来起こるという事である。この主張自体は説得性を持っており、確かに生じうると私自身も思う。

しかしながら、この本を読む時に注意すべき事がある。この本は第一部「革命」、第二部「未来」という二部仕立てになっている。そして、物作りの世界でソフトウェア/サービスと同様の新しいビジネスモデルが生じる可能性に関する論理的な記述は、実は第二部で行われているのである。

ところがその導入部とも言うべき第一部は、最近低価格化が進んでいる3Dプリンタとその可能性に関する詳細な記述に費やされている。3Dプリンタは、ユーザが事前にオーサリングソフトを使って作り上げた3Dモデルに沿って、樹脂・金属・木材などを使ってその3Dモデルを現実の形にしてくれるツールである。(実際には、樹脂などを固める事により実態を作り上げる3Dプリンタと、樹脂・金属・木材などの固まりから不要な部分を削り取る事により作り上げるCNC装置の2種類があるが、ここではまとめて3Dプリンタと呼ぶ事にする。)

この3Dプリンタは、従来は数百万円以上していたものが最近では数十万円の製品が現れて来て、個人でも所有する事が可能になった。これを使えば、たとえば自分好みの3Dフィギュアを作る事も出来るし、レゴの製品に無い新しいレゴブロックを作る事も出来る。著者は、著者の祖父が発明した自動スプリンフラーの試作品も3Dプリンタで比較的容易に作る事ができる事を述べている。著者はこの3Dプリンタに入れ込んでいるようで、自宅にも設置し趣味としていろいろなものを作って来た事を事細かに記述している。

あまりにも著者の3Dプリンタとその可能性に関する記述が詳細で、しかもこれが上に述べた物作りにおける革命的なビジネスモデルの変革を生み出す基であるかのように記述しているため、3Dプリンタを知らない読者はどんなにすごい装置なのだろう、そしてそれこそがいま物作りの世界に革命を引き起こそうとしているのだと思い込んでしまうかもしれない。工作好きの読者なら早速3Dプリンタを買おうとネットでサーチしたりするだろう。

この本に関する書評を数カ所で見つけたが、この点を混同しているようで、3Dプリンタこそが製造業の世界に革命的変革を作り出そうとしていると評している書評も見かけられた。

そのようなことはない。たしかに3Dプリンタは、物作りの世界にビジネスモデルの革命的な変化をもたらす要素の1つではあるが、それはあくまで要素の1つであって、これが全てではない事に注意する必要がある。この事はまた後で詳しく述べようと思うが、その根底にはソフトウェア/サービスと製造業との根本的な違いが存在しているのである。(その事を著者はビットとアトムの違いと述べている。)

実は私は、日本で大学の教員をしていた6年間は、ヒューマノイドロボットを研究テーマにしていた。正に物作りの領域である。したがって大学にお願いして、当時1千万円近くした(現在はもっと安くなっているだろう)大型の3Dプリンタを購入して学生に使わせた事がある。これを使えば、プラスチックの固まりからロボットの外装やロボットの顔などを比較的容易に作り出す事が出来る。

学生が競って使ってくれる事を期待したのであるが、最初の頃こそ興味を持っていろいろな物を作り出して楽しんでいたが、そのうち飽きて来たのか結局最後は3Dプリンタは研究室のなかでほとんど埃をかぶったままになってしまった。もちろん私の研究室が、ロボットのハードというよりロボットを用いた応用研究(たとえばロボットに太極拳をさせたりダンスをさせたりという)がテーマの中心で、そのようなテーマに興味のある学生が多かった事にも原因があるかもしれない。

しかしながらその大きな理由は、3Dプリンタが作り出してくれるのはあくまでフィギュア・アクセサリ・レゴブロックのような小物部品類であって、それだけではすぐ飽きてしまうことにある。大型の装置を作ろうとすれば、プラスチックの部品の組み合わせだけでは難しい。またそれを制御するソフトも作る必要がある。それは誰にでも容易にできる事ではない。新しい製品を作り出そうとする強い意志を持った起業家にのみ可能な事であるといったら、言い過ぎだろうか。
(続く)