シンガポール通信ーアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」3

もう一つ彼の手記を読んでいて感じるのは、彼自身も含め彼と出会う人たちがいずれも若い事である。

サトウ自身は1843年の生まれであるから、1862年に日本の英国公使館に通訳として着任した時にはまだ弱冠19歳。いわばヒヨッコである。まだ十分に日本語の読み書きも出来ない段階であった。したがって当初は通訳としての仕事も任される状態ではなかったが、日本語を猛勉強して、後には日本に滞在する外国人の中では誰よりも日本語に堪能であるとして広く知られるようになった。

そして、サトウと交わる日本人—その多くは明治維新後明治政府で活躍するのであるが—も皆若い。1864年には長州藩との交渉のため、ヨーロッパ留学から帰国して来たばかりの伊藤博文井上馨と会うが、この時サトウは21歳、伊藤は23歳、井上は28歳、いずれも20代である。

これをきっかけとして、伊藤博文井上馨との文通を中心とした交友が始まる。何分にも20代の若者であり、幕藩体制から天皇制への移行や日本の将来について青臭い議論を取り交わしたのであろう。とはいいながら、彼等の取り交わした議論がその後の明治政府の政策に種々の形で反映された事は確かであろう。その意味では、サトウは通訳という自らが交渉の主体となって動く地位にいるわけではないが、当時の各国の大使に比肩できるあるいはそれ以上の影響力を、幕末から明治維新の混乱期に持っていたと言えるかもしれない。

1866年には、ジャパン・タイムズに匿名で論文を掲載する。これは、将軍は主権者ではなく諸藩の連合の代表に過ぎないから、諸外国と将軍の間で取り交わされた条約は効力を持たないため、諸藩連合との間の条約に改めるべきであり、さらには政権そのものも諸藩連合に移すべきであるとするものである。これは、すでに当時の徳川幕府の各藩を支配する権力が低下していることを念頭においたもので、ある意味で当時の常識となりつつあった意見であろう。

しかしながら、それが新聞に正式の論文として掲載された事は、大きな意味を持っていたであろう。匿名とは言いながら、いずれかの公使館に勤務しているある程度以上の地位の人間が書いたものである事は明白だったであろうから、それは非公式ではあるが諸外国が将軍の権威を否定してそれに変る新しい政府(ここではそれはまだ天皇と言っていないが)に政権を委譲すべきことを主張したものだからである。

この論文は後に「英国策論」の名前で翻訳され当時の多くの人たちに読まれたらしい。尊王派にとっては、天皇の名前が明記されていなくても、幕藩体制から天皇をトップとした王制に変える事の必要性を説いたものであり、彼等の倒幕の動きを支持する論文と映ったであろう。

彼の手記は、後年彼が書き上げたものであるが、当時の彼の日記を基にしているだけに、緊迫感に富むと共に、当時のまだ若かった彼のいってみれば青臭い考え方や言動が手に取るようにわかって興味深い。

英国公使の通訳として、当時の将軍である徳川慶喜や後の明治天皇に会う場面も、いかにも当時の主権者に会う事が出来た彼の興奮や自慢振りが見えるようである。もし当時Twitterがあったら、彼は「今将軍に拝謁している、ナウ」などとメッセージを自慢そうに送ったであろう。

また、これらの外交交渉に加え、先に述べた 伊藤博文井上馨をはじめとする、当時の若い各藩を代表するような青年達との交友も描かれている。そしてその多くは議論の後、街へ繰り出して芸者を呼んでの宴会に発展するのである。これも最初は、外国人が混じっている事に芸者がびっくりして逃げ出すなどの珍事が描かれているが、そのうち芸者を入れての宴会騒ぎが日常茶飯事のようになっていく。まさに幕末の時々刻々と変わって行く当時の情勢が手に取るようにわかるではないか。