シンガポール通信ーアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」2

「一外交官の見た明治維新」を読んでいてもう1つ興味深いのは、幕末から明治維新にかけての混乱期に、将軍から天皇へ権力が移って行く様がまさに手によるようにわかる事である。サトウはイギリス公使館付きの通訳担当外交官であるが、イギリス公使は当初は時の徳川幕府に日本の港を次々と開港させ外国との貿易を開始させる交渉を行っていた。したがって、イギリス公使館は横浜に後には江戸に設置されていた。そして同時に、同じような利害関係を持っているフランス・オランダ・米国の公使館も同様に横浜・江戸に設置されていた。

英・仏・蘭・米の外交官達は、自国と日本との貿易を振興するという意味で本来はライバル同士であるが、それに先立って日本の港を開港させるという目的に関しては共通しているため、少しずつ意見は異なりながらも幕府との交渉に当たっては協力体制を取っていた。

したがってこの本の前半では、徳川幕府の役人達との折衝が彼らの活動の中心的なものとして記されている。先に述べた1862年の生麦事件薩摩藩の行列に乗馬のまま紛れ込んだイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件)の後始末も、本来は薩摩藩とイギリス公使館との交渉ごとであるが、薩摩藩幕藩体制に組み込まれた藩である事から、イギリス側は犯人引き渡しなどの交渉は当初はあくまで幕府との間で行われた。
ところが、すでに幕府は薩摩藩に対する支配力を失いつつあり、薩摩藩は言を左右して責任を明らかにしようとしなかった。業を煮やしたイギリス公使は、薩摩藩と直接交渉を開始しようとした。そしてそれが不調に終った事が、英国艦隊が鹿児島市街を砲撃し焼き払うという1863年の薩英戦争に発展したのである。

従ってこの事件をとおして、イギリス公使館初め各国の公使館は、徳川幕府の配下の藩に対する支配力が既に衰えている事を理解したと思われる。そして同時に、薩英戦争の後始末のための薩摩藩との交渉を通してイギリスは、「尊王攘夷」で凝り固まっていると考えられていた薩摩・長州藩の上層部が意外に柔軟な考え方を持っていることを理解したのではないだろうか。むしろ薩英戦争に敗れた事で、薩摩藩内部では外国の進んだ技術力を理解しそれを取り入れる必要がある事を認め、「開国論」に切り替わりつつあるという雰囲気も、イギリス公使館ではつかんだであろう。

このことが、イギリスをして薩摩藩長州藩に接近するきっかけとなったのである。いいかえれば、イギリスが明治維新の到来を予測して、早めに徳川幕府に見切りをつけ天皇を頂点とする尊王派に鞍替えをする行動を開始するきっかけとなったのである。

同じく1864、1865年には、長州藩が馬関海峡(関門海峡)を通過する外国商船を砲撃した事から、2回にわたって英・仏・蘭・米の四カ国艦隊が長州藩の砲台を砲撃し破壊するという長州戦争が起きている。これによって長州藩も攘夷思想から開国思想へと切り替わる事になるのであるが、そのことによって英国以外の国々も幕府を支持する考え方から天皇を支持する考え方へと切りわかって行ったのである。とはいいながら、このことは薩英戦争を経験したイギリスに一日の長があり、特にフランスは最後まで将軍を頂点とする徳川幕府を支持する立場を取ったため明治維新後においては政府との関係においてはイギリスの後塵を拝する事になったのである。

このような動きに伴い、サトウを始めとする各国の公使館とそこに所属する外交官達の活躍の場も徐々に横浜・江戸から大阪へと移って行ったのである。1867年3月には、将軍徳川慶喜が大阪において各国の公使達を引見する。サトウも将軍のイギリス公使の引見の場に連なる。しかしこのときの将軍徳川慶喜はすでに、全国の藩を配下におく幕藩体制のトップに君臨する人間ではなくなっていた。薩摩・長州などの倒幕派が勢いを増しつつある中、それらの藩に対する支配力も無力化しており、日本全体の政治をまとめる征夷大将軍としての座を投げ出しかけていたのである。

実際に大政奉還が行われるのは同年10月であるが、徳川慶喜自身が各国の大使達を大阪において引見した時、彼はすでに大政奉還を行う事を決断していたのかもしれない。将軍のイギリス公使引見の場に関するサトウの記述からも将軍が極めて疲れて見えた事、交わされた言葉も政治に関する重要な議論ではなく、とりとめも無い話題であった事が見て取れる。サトウは直接政治の動きを記述している訳ではないが、彼自身の体験談から、私たちは当時の情勢の動きを生々しく感じ取る事が出来る。