シンガポール通信ーアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」

久しぶりに面白い本を読んだ。もっというと、岩波文庫にこれほど興味深い歴史に関する本があるとは思わなかったというのが、最初の読後感である。週末に一気に読み終えた。

著者のアーネスト・サトウは、1862年から1869年までおよび1870年から1883年まで、書記官として江戸(後には東京)のイギリス公使館に勤務した。この本は、そのうち前半の1869年から1870年までの出来事を、彼が日記に書きおいていたことに基づいて後年彼がシャム駐在中にまとめたものである。

この時期は、時あたかも幕末から明治維新にかけての動乱期である。将軍を頂点とする幕藩体制を維持しようとする徳川家を中心とした徳川幕府側と、天皇を頂点とする天皇制の復活をめざす薩摩藩長州藩などを中心とした倒幕派が、激しく政治的にそしてさらには武力的に争った時期である。そして、力の中心が徐々に幕府側から倒幕派へと移り、最終的には1867年の大政奉還、1868年の明治天皇即位による明治政府設立へとつながるわけである。彼が日本に滞在したのはまさにこの幕末の混乱期に重なっているのである。

サトウの着任早々に、有名な生麦事件が起こっている。これは、薩摩藩主の父島津久光の行列と騎馬のイギリス人達の間での衝突の結果、イギリス人リチャードソンが斬り殺された事件である。この事件では、薩摩側が下手人の追求・処罰を行わなかった事が外交問題に発展し、1863年に英国の軍艦が鹿児島市街に砲撃し焼き払うという薩英戦争に発展している。これは尊王攘夷運動の高まりに拍車をかける事となった。

さらに、長州藩が馬関海峡を通行中の外国艦船に対して砲撃を加えた事に対する報復として、英仏蘭米の四カ国の艦隊が 馬関海峡の砲台を砲撃するという、下関事件が1864年に生じている。サトウは薩英戦争・下関戦争に直接参加すると共に、これらの事件の解決に向けた外交交渉において通訳として関わる事により、いわばこの時代の歴史に直接関わっている。

サトウは、通訳という立場でこれらのこの時代の歴史の重要な事件に直接関わったり、またその後処理に関わるという立場にいたわけである。もちろん、イギリス公使館に勤務しているわけであるからイギリス側に組しているわけであるが、通訳というある意味で第三者的な立場が彼の記述にある種の客観性を与えている。そのために、読んでいるとまさに幕末の日本に自分がタイムスリップして、その時代の歴史を自分の目で見ているような感覚を与えるのである。

またサトウは英国公使の通訳として、時の将軍徳川家茂徳川慶喜に拝謁したり、後の明治天皇である陸仁親王に拝謁したりしている。さらには、イギリス公使の通訳といういわば重要な情報を握っていながら、地位としては高くなく人々と気楽に会い話し合う事が出来るという立場を利用して、多くの人と親しく接している。伊藤博文岩倉具視西郷隆盛勝海舟など幕末から明治維新にかけてさらには明治政府において活躍した有名人達との出会いと交遊が次々と描かれている。

彼等の活躍は、もちろん小説・映画・テレビの大河ドラマなどで何度もお目にかかっているが、それらの人たちと直接言葉を交わしたり酒を飲み合ったサトウの経験談というのは、何物にも代え難いリアリティを持っている。

さらに読んでいて大変面白いと感じられた点がいくつかある。一つは薩英戦争に破れた薩摩藩や下関事件で破れた長州藩が、さらにかたくなになって攘夷思想を主張し続けるのではなく、破れた事により外国の進んだ軍事力・技術力さらにはその背後にある文化に驚き、攘夷思想から開国思想に鞍替えするところである。もちろんこの事は歴史としては学んでいても、なぜそのように容易に思想を全く正反対に変える事が生じたのかは、納得のいかないままであった。

サトウは、英国大使の通訳としての立場から、薩摩藩や下関事件の終結直後から薩摩藩長州藩重臣達との交渉を開始している。それを読むと、負けた側の薩摩藩長州藩が意外にあっけらかんとしており、負けた恨みをもつというより、西欧の進んだ技術・軍事力に素直に驚くと共に納得し、今後は西欧の技術力を導入し学ばなければならないと正直にサトウに告げているのである。

これは歴史に関する文献などの告げているところと同じことなのであるが、いわば現場の証人による記録なので、単なる文献とは異なり説得力を持っている。攘夷に凝り固まって外国人襲撃を執拗に行う武士たちと、このように素直に事実を受け入れて考え方を変える武士達が同時に存在していたのである。不思議と言えば不思議であるが、ある意味で日本人の一つの特徴が現れているのかもしれない。

(続く)