シンガポール通信ー将棋や囲碁は単なるゲームになるのだろうか4

さて、いろいろと論じて来たので、今回のこの議論はこの辺りで一段落しておく事としよう。ともかくも重要なのは、ここまで述べて来た事からもわかるように、コンピュータの将棋プログラム・囲碁プログラムが人間の名人に肉薄しつつあるという事は、実は将棋・囲碁という伝統的なゲームの世界において極めて重要な事件なのである。

将棋界・囲碁界が、コンピュータプログラムとそれらの世界における高段者との対局に協力的であるというのは大変結構なことではあるが、上記のことが将棋界・囲碁界にどのような影響を与える可能性があるか、そしてそれに対して将棋界・囲碁界はどのように対応すべきかはよく考慮しておくべき事であると思われる。

最後に言い残した事として、体を使って勝ち負けを競う「身体的ゲーム」と頭を使って勝ち負けを競う「知的ゲーム」に対する私達の考え方の違いが、何に起因するのかを考えてみよう。具体的に言うと、100m走や重量挙げなどの速さや力強さをきそうゲームでは、前回も述べたように「人間同士が競う」というのが基本的なルールになっている。そしてそのために、100m走において人間と自動車が競争するというゲームは(もちろんその場合自動車の方が速いが)行われていないわけである。(もっとも自動車が出現した最初の頃はそのような競技が行われた事を覚えておく事は必要かもしれないが。)

ところが、このような身体的ゲームと知的ゲームの大きな違いは、チェス・将棋・囲碁などの知的ゲームは本来人間同士が競い合うゲームであるが、同時にコンピュータプログラムと人間が競い合う事が行われている事である。そしてコンピュータのチェスプログラムが人間のチェスチャンピオンを破って以降、チェスが持っていたゲームとしての高貴性、チェスの世界チャンピオンが持っていた神秘性・神格性が失われてしまったのである。

これはなぜだろう。たとえコンピュータのチェスプログラムが人間のチャンピオンを破っても、「チェスは本来人間同士が競い合うゲームである」として超然としていれば良いのではないかという疑問が生じないだろうか。しかし確かに私達は、チェスにおいて人間がコンピュータに破れたニュースを聞いた時、チェスの地位が低下したように直感的に感じたのではあるまいか。

この理由を明快に説明するのは難しいが、これを説明するのにはチューリングテストを引き合いに出すのが適当だと思われる。チューリングテストは、ある機械が知的かどうかを判定するためにアラン・チューリングが考えだした方法である。具体的には、隔離された2つの部屋にそれぞれ人間とコンピュータを入れておき、外部の人間がこれらのそれぞれとキーボードでコミュニケーションし、人間と機械との明確な区別がつかなかった場合は、この機械が知性を持つと判断するというものである。

これはある意味で知性の定義である。そして私達は、この定義に対して「なるほど」と同意するのではあるまいか。ところがこの定義を認めてしまうと、チェス・将棋・囲碁等のコンピュータプログラムが知性を持つ事を認めなければならなくなる。それは、これらのコンピュータプログラムがチェス・将棋・囲碁などのゲームを通して人間の高段者・名人と対等に競い合う(いいかえるとコミュニケーションする)ことは、チューリングテストに基づけば、コンピュータが知性を持っている事を証明する事になるからである。そして、コンピュータプログラムが人間の高段者・名人に勝つ事は、コンピュータが人間以上の知性を持つ事を意味している事になるのである。

つまり体力を競う「身体的ゲーム」の場合は、相手が人間である必要があるが、知力を競う「知的ゲーム」の場合は、相手は人間ではなくコンピュータであってもかまわないのである。なぜこのような不平等な規則になっているのかについては、私自身も明確に答えられるわけではない。ただ言えることは、どうも私達は、知的な面で人間がすべての動物の頂点に立つという考え方にこれまで慣れており、それがいつの間にか「人間は知的な面ですべてのものの上に立つ」という考え方に拡げられ、そしてそれに私達が慣れてしまっているのではないかという事である。

そのために、当初はチェスが人間にしか出来ないゲームであり、その世界チャンピオンは知的なレベルで人々の頂点に立つと考えられて来た。そしてその事が、コンピュータが世界チャンピオンを破った事によって打ち破られ、それがチェスの知的ゲームとしての地位を低下させる事につながったのである。

近い将来には将棋・囲碁においても同様の事が生じる可能性が大きい。この事を考えると、これらの知的ゲームにおいても身体的ゲームと同様に、「人間同士が競い合うゲーム」であるという考え方を導入し人々に広めておく必要があるのではあるまいか。もっともそれはなかなか困難な事である事は確かである。