シンガポール通信ー将棋や囲碁は単なるゲームになるのだろうか3

コンピュータの将棋プログラムや囲碁プログラムが近い将来人間の名人に勝つという事は、将棋や囲碁の世界でもチェスと同様のことが起こる可能性がある事を示している。つまり将棋や碁が、現在認められているような極めて高い地位にあるゲームとしての性格を失う事を意味している。そしてそれは、将棋や碁の名人の天才性・神格性・神秘性がうすれ、単なる何かのゲームのチャンピオンという事になってしまう可能性があるという事である。

いやそのようなことはないという意見は多いだろう。たとえコンピュータが人間の将棋や碁の名人に勝ったとしても、将棋や碁は本来人間同士が競い合う事に特徴があるのであり、人間同士が戦う名人戦の意義はこれまでと変らないと言う人は多いだろうし、私もそう信じたい。

しかし、例えば将棋の名人戦などの様子がTV中継されるのを人々はなぜ見るのだろう。それは、名人や挑戦者の次の1手を皆が必死に読もうとして、それに対して名人や挑戦者が時間をかけて次の手を読んだ結果として、時には素人が思いもよらない手を打ってくる事に対してある種の賞賛と尊敬を感じるからではあるまいか。

それをたとえば、誰でもが持っているスマートホンによって、次の最善手が容易に予想できるようになってしまったらどうなるだろう。碁や将棋が持っている神秘性・神格性は、素人にはなかなか次の最善手が予想できないという、予測不可能性によるところが大きい。スマートホンで簡単にそれが出来るようになった時、将棋や碁が持っていた神秘性・神格性は失われてしまうのではあるまいか。そしてそれはチェスにおいてすでに起こっている事であろう。

かっては、暗算名人とかそろばん名人というのがあった。暗算やそろばんでの計算を高速に行える事が、知力のあかしであると考えられていた時代があったのである。しかしコンピュータが、いとも簡単に人間のトップクラスの計算能力を凌駕するようになった時、暗算やそろばんの速さを競う事に人々は意義を見いださなくなり、暗算名人・そろばん名人は消えて行ったのではないだろうか。遠い将来とはいえ、それと同じ事が将棋や碁の世界で起こらないとは言えないのではないかというのが、私の危惧するところである。

それでは、速さや力などを競う「身体ゲーム」の場合はどうだろう。不思議な事に、こちらの場合は事情が異なるようなのである。たとえば100m走を例にとってみよう。100m走はオリンピックのハイライトであり、誰が金メダルを取るかは人々の大きな興味の対象である。またオリンピックに限らず100m走の世界記録を誰が持っており、誰が破るかも人々の大きな興味の対象である。

さてそれでは人間と機械たとえば車との比較をすれば、これは車の方が速いに決まっている。0m−100mは、スポーツカーなら4秒そこそこで走り抜けるだろう。それならば、人間が100mを走る速さを競う競技はその意義を失っているだろうか。そのようなことはない。上にも述べたように、100m走はいまだにオリンピックの華であり、その勝者は人々の記憶に残る。

これはなぜだろうか。どうもここには、頭を使って勝ち負けを競う「知的ゲーム」と体を使って速さや力を競う「身体的ゲーム」の本質的な違いが関係しているのではないだろうか。具体的に言うと、100m走や走り高跳びなどの身体的ゲームの場合は、「人間同士が競い合う」という基本的な原則があるようなのである。そしてこの事は、人間と車が100m走を行う事はゲームとは見なされない事を意味している。

もちろん、人間が運転する車同士が速さを競う競技は、F1などのレースとして存在している。そしてそこでは、車の性能に制限を設けた上で、それを扱う人間の能力を競うというゲームの形式がとられている。つまり同じ条件を設けた上で人間の身体能力を競うのが「身体的ゲーム」なのである。

いいかえると、100m走は「人間が自然な自分の肉体を用いて走る」という基本条件の上で速さを競い合うゲームなのである。そしてそのためにスポーツ選手が自分の肉体を鍛える過程に、人々は大きな意義を見いだしているのではあるまいか。だからこそ、身体的能力を競い合う競技における、筋肉増強剤などの人間の肉体を人工的に強化する薬物の使用が、神経質なほど強く禁止されているのであろう。

(続く)