シンガポール通信ー将棋や囲碁は単なるゲームになるのだろうか2

もちろん、遊びの1つの分類学であるアゴーン(競争)には、100m走や棒高跳びのように体力を使って他の競技者と勝ち負けを争う分野もある。ここで注目する必要があるのは、将棋や囲碁のように知力を使って勝ち負けを争うゲーム(知的ゲーム)と、体力を使って勝ち負けを争うゲーム(身体的ゲーム)のいずれもが、勝者を賞賛・尊敬そして時には崇拝するという性質を持っている事である。

身体的ゲームであれば、たとえばプロ野球の有名選手は、高い報酬をもらい多くのファンを持っている。トップテニスプレーヤーやトップゴルフプレーヤーも同様であろう。そしてそれ以上に人々の賞賛を集めるのは、身体的ゲームのトップに君臨すると言えるオリンピックであろう。オリンピックの勝者は、金銭的な報酬はないものの、その分人々の賞賛の対象となる。

これはもちろん知的ゲームでも同様である。かってはチェスの世界チャンピオンと言えば、知的レベルにおいて頂点に立つ人とまで考えられた時代があった。将棋や囲碁においても同様ではあるまいか。将棋や囲碁の名人はある意味で天才と考えられており、名人戦は人々の注目を集めるし、トップレベルの棋士や碁士の言動も人々の注目を集める。時には天才以上の存在として、伝説にまで高められる事もある。将棋における坂田三吉と関根名人の因縁の対決、最近では大山康晴升田幸三との戦いなどは、伝説として人々に語り継がれている。

なぜそうなのだろう。これは難しい質問であるが、知力や体力の限りを尽くして人間同士が戦う事その事に私達が高い意義を認めその勝者を賞賛するというのは、人間の闘争本能に基づいた傾向であると説明するのが、もっとも理にかなっていると思われる。

さてそこでコンピュータ(もしくは機械)の登場である。まず知的ゲームから考えてみよう。人間は知的レベルにおいて、すべての動物の頂点に立つ。ということは、将棋や囲碁の名人は、いわば知的レベルにおいてすべてのものの頂点に立つと考えられて来たのではあるまいか。そしてその故に賞賛され、時には伝説化されて来たのである。

その将棋や囲碁の名人がコンピュータに破れるとどうなるだろうか。これは、知的レベルにおいてすべてのものの頂点に立つという神話が、崩れてしまう事を意味するのではあるまいか。いいかえると、それまで名人がもっていた神秘性・神格性のようなものが薄くなってしまうのではないだろうか。良い例がチェスの世界チャンピオンである。1997年に当時のチェスの世界チャンピオンKasparovがIBMのコンピュータDeep Blueに破れたときを境として、それまでチェスの世界チャンピオンが持っていた神秘性・神格性はなくなってしまったのではないだろうか。

もちろん現在でもチェスの世界選手権は行われており、世界チャンピオンは存在している。しかしその影は、Kasparovの頃に比較すると薄くなってしまっている。多分ほとんどの人が、チェスの世界チャンピオンの名前を知らないのではあるまいか。ただの人というのは言い過ぎかもしれないが、何かの大会での勝者としての取り扱いしか受けていないのではあるまいか。

それはやはり、コンピュータの台頭によって、知的レベルにおいてすべてのものの頂点に立つという言い方が出来なくなったからである。そして知的レベルにおいてすべてのものの頂点に立つという言い方こそが、名人・チャンピオンの神秘性・神格性を象徴していたのである。コンピュータが人間の名人・チャンピオンを破ることは、そのような神秘性・神格性が消えてしまうことを意味している。

さてここまでいうと、コンピュータの将棋プログラムが将棋の女流王将や永世棋聖に勝利したり、囲碁プログラムがハンディ戦とはいえ囲碁の九段に勝利したという事の持つ大きな意味が明らかになってくるのではないだろうか。

チェスの世界チャンピオンがコンピュータに勝てなくなる事により、その神秘性・神格性を失ってしまった事を述べた。それは、それまで知的ゲームの頂点に立つと考えられて来たチェスが、言ってしまえば単なるゲームになってしまう事を意味するのである。チェスより簡単なゲームとしては、たとえばオセロ(正式名はリバーシ)がある。チェスがオセロと同じレベルのゲームとして取り扱われる事は、チェスのファンとしては受け入れがたいことであろう。しかし、現実にはそうなっているのではあるまいか。

(続く)