シンガポール通信ー将棋や囲碁は単なるゲームになるのだろうか

先々週は、国際会議出席のため中国に1週間出張した。また先週は、日本企業と私の勤務しているシンガポール国立大学の共同研究の可能性について議論するため、日本に出張し複数の日本企業を訪問し議論を行った。今週は久しぶりにシンガポールに戻り、たまっている仕事を片付けている。

その合間に、少し遅いけれども人工知能学会誌の9月号を読んでいると、「コンピュータ囲碁」という興味深い記事が掲載されている。それによると、最近のコンピュータ囲碁プログラムの進歩は急速であり、2012年3月にはプロの武宮九段と囲碁プログラムの「Zen」が対局し、5子と4子のハンディ戦(コンピュータ側がハンディをもらう)を戦い、いずれもZenが勝利したとある。

同様に、コンピュータ将棋プログラムも急速に進歩しており、2010年には将棋プログラム「あかね2010」が女流トップの清水女流王将に勝ち、さらに2012年には同じく将棋プログラム「ボンクラーズ」が元名人米長永世棋聖に勝利している。コンピュータ将棋の分野では、すでにコンピュータ将棋プログラムがプロのトップクラスにハンディなしで戦って勝つ事が出来るレベルになりつつあるのである。

もっとさかのぼると、1997年にIBMのチェス専用マシンDeep Blueが当時の世界チャンピオンKasparovに勝利しており、それ以降人間はコンピュータのチェスプログラムに勝てなくなっている。私が2010年に出版した本にも、コンピュータが人間のチェスチャンピオンを破った話は書いており、論理的なゲームではコンピュータが人間に勝てるようになるのはある意味で必然であることを指摘した。

とはいいながら、将棋や囲碁はチェスに比較すると極めて複雑なゲームであるため、コンピュータのプログラムが人間の将棋や囲碁のチャンピオンを破るのは、かなり将来であろうと予想した。しかしながら、コンピュータプログラムが人間の将棋や囲碁のトップクラスのプロと対等に戦い、かつ勝てる日は近づいているのである。上の事から、将棋の世界ではコンピュータの将棋プログラムが将棋のトッププロを破るようになるのは時間の問題であろう。囲碁の場合はもう少し時間がかかると思われるが、これも近い将来コンピュータ囲碁プログラムが人間の囲碁名人を破るようになることは容易に予測できる。

さてこれだけを取り出すと、コンピュータの進歩はすばらしいと感心するだけの事になる。しかし実はこの事は、重要な問題を含んでいる。やさしく言うと、コンピュータが人間を知的な分野で凌駕することが現実となる事を意味しているとも理解できるのである(実際にはそれほど単純な話ではないが)。映画などでは、コンピュータやロボットが人間を凌駕し支配する将来が何度も描かれている。それは一種の恐怖と共にではあるまいか。

ところが奇妙なのは、将棋や囲碁の世界でコンピュータが人間のプロのトップクラスに近づきつつあるという重大事に対し、そのニュースがさほど大きな話題になっていない事である。なぜそのことの重要性を指摘する人がいないのだろう。そしてそれはまた、「将棋」や「囲碁」という基本的には単なるゲームでありながら、ゲームの中では神聖視され特別の地位を与えられて来たゲームの地位が、危うくなる事を意味していると私は理解している。この事を少し考えてみよう。

最初に指摘しておく必要があるのは、将棋や囲碁(そしてもちろんチェスも含めて)は、本来単なるゲーム(遊び)であるということである。遊びという大きなくくりでは、将棋や囲碁は鬼ごっこや麻雀と何ら異なるものではない。違いは、将棋や囲碁はルールが厳密に設定されており運の入る要素が排除されている事、そしてその中で知力を尽くして勝ち負けを競う事が遊びとしての特徴である事である。

遊びの分類に関してはロジェ・カイヨワが、遊びを「競争(アゴーン)」「偶然( アレア)」「模擬(ミミクリ)」「眩暈(イリンクス)」の4種類に分類した分類学が有名である。この分類学に従えば、将棋・囲碁アゴーンに分類される。アゴーンの特徴は、競争相手に勝つ事に特別の意味が付与されている事であり、その結果として勝者には特に特定の分野においてトップクラスの人間若しくはトップに君臨する人間が、賞賛され崇拝されそして時には神聖視される事である。

これがなぜかという理由を説明する事は難しいが、人間が生存し進化していくために人間が持っている本能に基づくものとしておくのが無難だろう。

(続く)