シンガポール通信ー紹興市の観光

紹興市で行われた国際会議の最後の半日を利用して、紹興市内および近郊の観光を行った。紹興は作家「魯迅」が生まれた街としてよく知られているため、当初は魯迅の生家に行こうという意見が多かった。しかしながら、同行した北京大学の教授が、紹興は歴史的な街なので博物館を見学すべきであると助言してくれたので、紹興市の博物館を訪れることにした。これが結果として、最近中国の歴史に興味を持っている私にとっては大変興味深い機会を与えてくれた。

紹興市およびその周辺は長江の下流に当たっており、中国の歴史で言うと長江文明が栄えた場所である。長江文明は紀元前6000年頃(もしくはそれ以前)から発達した文明であり、稲作を中心としていることが特徴である。その後中国最初の王朝とされる「夏」が紀元前2000〜紀元前1600年頃に栄えたとされる。夏の最初の王とされる「禹」の陵が紹興の近郊にある。夏の存在は長らく伝説に過ぎないと考えられて来たが、最近の発掘の成果などによって、少なくともその時代に王朝が存在していた可能性が大きい事が認められつつあるらしい。

その後春秋時代には「越」(紀元前600年頃〜紀元前334年)の首都が紹興市にあった。越と近くにあった別の国である「呉」の間の戦いは、春秋時代の1つの大きなドラマとなっている。孔子を初めとする中国の古代の哲学者達が競い合った諸子百家もこの時代である。

最近、春秋時代の歴史や中国古代の哲学に興味を持っており、週末には岩波文庫でこれらの本を読むのを楽しみにしているが、これまではいずれも過去の話であり、現在の中国との関係は薄いと思い込んでいた。それがこの博物館の見学やその後の越時代の運河の観光などによって、2500年もしくはそれ以上昔の遺跡が残っており、現在の中国が世界四代文明の1つとされる中国文明と強く結びついている事を実感させられた。



紹興博物館の入り口にて記念写真。右から私、京大土佐さん、杭州大学の先生、北京大学の先生。北京大学の先生は、中国の古代の遺跡をディジタル化して保存したり復元したりする研究を行っており、今回の観光では紹興博物館の見学を強く助言してくれた。



博物館内に展示してある青銅器時代の遺物。日本で言う銅鐸に相当するものらしい。



同じく博物館に展示してある越の王「勾践」の像。「越」と近隣の国「呉」は長い間敵対関係にあった。その間の経緯が有名な「臥薪嘗胆」の語源になっている。呉王「闔閭」は越に攻め入ったが敗れ、その時の負傷が基で病死する。闔閭の遺言を受けた後継者の「夫差」は、越への復讐を誓って国力の充実を図る。これが「臥薪」(薪の上に寝るの意)の語源とされる。軍備を充実した呉によって越は敗れ、越の国王 「勾践」は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねるが、呉に対する復讐を誓い富国強兵にはげみ、最後は呉を滅亡させる。「嘗胆」は、苦い肝をなめることにより屈辱を忘れないようにする事を意味している。この2つが一緒になり「臥薪嘗胆」として使われるようになった。



夜は紹興市の運河の観光。この運河は、紹興がかって越の首都だった時代に、首都を守るために設けられた堀である。堀とはいっても、広いところだと幅100メートル以上。堀というよりは、運河という方がよくマッチしている。運河にかかる橋がライトアップされており、大変美しい。



運河の別のスナップ。越の首都だった時代に建設されたわけであるから、現在から見ると2500年以上前の時代の遺跡という事になる。ローマの遺跡よりも古く、ちょうどギリシャパルテノン神殿とほぼ同時代という事になる。ギリシャと中国で、ほぼ同じ時代に同じようなレベルの文化が栄えたというのは大変興味深い。パルテノン神殿がよく知られているのに比較すると、この古い歴史を持つ運河があまり知られていないのは残念である。



船着き場で太極拳をする人々。太極拳も中国文化の1つの典型であろう。夜や早朝に太極拳をする人たちをしばしば見かけた。