シンガポール通信ー龍谷大築地先生の来所

先日私の大学の工学部の事務から突然電話があって、私宛の来訪者がいるのだが尋ねるべき場所がわからないとの事なので、工学部の事務室から私のオフィスまでの道筋を教えてくれとの事であった。来訪者の名前を聞いてみても、どうも発音しにくい名前のようでなかなか要領を得ない。

そこで本人に代わってくれと頼んだところ、「中津先生お元気ですか」という元気な声が受話器から聞こえて来た。「ん、だれかな」と一瞬考えたけれども、声の調子からすぐ思い出した。龍谷大の築地達郎先生である。Tukijiというのは日本人でも発音しにくい名字であるから、なるほどシンガポールの事務の女性が発音に戸惑うのも無理はない。

ともかくも久しぶりなので、私のオフィスへの道順を教えてすぐに来てもらった。築地さんとは5年ぶりの再会であるが、以前と同じようにお元気で精力的にいろいろな事に取り組まれており、以前の築地さんとまったく同じ様子であった。

築地さんとはもう10年以上のおつきあいだろうか。最初にお会いしたのは、私がまだATRで知能情報通信研究所というメディア関係の研究所の所長をやっていたときであった。当時築地さんは、長年勤めておられた日本経済新聞社を退社され、京都に拠点を構えて京都経済新聞という新聞を立ち上げようとしておられた。

日経新聞社を退社された理由は詳しく伺っているわけではないが、既存の新聞社の社会一般の事件・出来事に対するアプローチや記事にまとめるやり方に納得がいかず、新しい新聞のあり方に京都経済新聞という形でチャレンジしようとしておられるということであった。

私にアプローチされたのは、当時は人型ロボットがブームになりかけていた時代であり、ATRで人型ロボットの研究開発に力を入れていた私に興味を持たれたからであるらしい。私に1週間ほど密着取材をされて、他のロボット開発の話と一緒にまとめて、中央公論社から「ロボットだって恋をする」という本を出版された。

その本の最初の章に私のロボットへの取り組みを取りあげて頂いた。読み始めると私の話が出てくるので、なんだかこそばゆいような気がしたものである。その頃から始めて今も続いている私が髪を茶色に染める習慣も「茶髪のロボット研究者」という形で書いて頂いている。この本の事を聞いてみたが、どうも残念ながら現在では絶版になっているとのことである。

日本におけるロボットの研究開発はその後幾多の変遷があった。特に昨年の福島原発の事故の際には、日本のロボットではなくて米国のロボットがまず原子炉のある建物の内部の調査に使われた事から、日本のロボット研究に対する厳しい世論の批判があったりした。しかしなんとかそれにも耐えて、一時のブームの頃ほどではないにせよ現在も引き続き盛んに研究が行われている。

一方築地さんの方は、京都経済新聞という新しいチャレンジがビジネスとしてはなかなか根付かないという苦労をされたようである。現在はビジネスとしての京都経済新聞の活動は一旦休止され、龍谷大学の准教授として研究という立場からマスコミのあり方などにアプローチされているようである。もちろん機会があれば、再びビジネスにチャレンジする事を考えておられる。

今回は、インドからの帰途の途中でシンガポールによられたとの事であった。インドは現在中間所得層が急激に増えつつあり(中国も同様であるが)、社会全体が大きな変革期にあるようである。インド側の研究者と一緒になって、この大きな変革の流れの本質やその向かう先を見極めたいというのが、現在の築地さんの大きな興味のようである。

私自身も、現在世界はアジアを中心として大きな変化の時代を迎えていると考えている。それをどのような視点で切り取れば、変化の本質やその向かう先が明らかになるのかというのは、大変重要な問題である。築地さんは社会学の視点から、私はメディアの視点からこの問題にチャレンジしているということを認識し合い、今後も意見交換などを続けようという事で意見が一致した。



私のオフィスで築地達郎先生と。築地さんは10年前と代わらず精力的な様子であるが、少し柔和な面も出て来たのではあるまいか。