シンガポール通信ーなぜ会議の場でメールをチェックするのだろうか2

次にそれではなぜ会議やディナーなどの公的な場でメールをチェックするという私的な行為が全世界的に広まって来たのだろうかという質問に答えてもらおう。これはなかなか厄介な質問であって、答えもかなりばらつく事が予想される。自由回答方式にしたためいろいろな答えがあり集計に苦労したが、以下のようにまとめる事が出来た。


3.なぜディナーなどの公的な場でメールをチェックするという私的な行為を行うという現象が普及したのだろうか(複数回答可)
新しいメディアの力による          9人
情報を得るのが容易になった         7人
モラルが変りつつある            7人
トレンド化している             6人
常につながっている事を求められる      6人
つながりたいという本能に基づく       5人
公的と私的の境界が不明確になっている    5人
わからない                 2人
総計                   47人


回答の分布がかなりばらついているが、その事自体がこの現象の原因が1、2の少数の原因に帰する事が難しい事を示している。

最初の「新しいメディアの力による」というのが最も多い回答である。確かにその通りであり模範解答であるが、これだけでは十分とは言えない。新しいメディのどのような力が人々の行動を変えたのかという、もう1段突っ込んだ回答がほしいからである。その意味では、この回答以降が、それを具体的に分析した回答になっていると言っていいだろう。

次に多いのは、「情報を得るのが容易になった」というものである。これは2つの意味がある。1つは、これまではPCなどを使わないとインターネットへアクセスして情報を得るのが困難であったのが、スマートフォンなどの普及によっていつでもどこでもインターネットにアクセスして、容易に情報を得る事が可能になったという意味である。もう1つは、ネット上の情報は常に更新されているため、常時ネットに接続して最新のニュースなどの情報を入手しておかないと取り残されたように人々が感じやすいということである。スマートフォンの普及によって、ネットへいつでもどこでも容易にアクセスできるようになった事が、常に最新情報にアクセスしておかなければという人間の欲望のようなものを作り出しているのかもしれない。

「モラルが変りつつある」というのは、ディナーなどの公的な場とメールをチェックするという私的な行為がこれまでは厳然と分けられていたのが、新しいメディアの出現によりその境界が曖昧になって来ている事を意味している。従来は公的な場(会社など)と私的な場(家庭など)は厳然と分けられていた。例えば仕事中は家族と連絡するには会社の電話という公器を利用する必要があり、それがそのような行為に制限をかけていたのである。ところが携帯電話やスマートフォンなどの新しいメディアが公的な場でも私的なメールのチェックという行為を容易にした。そしてその結果として、公的な場と私的な場の峻別というマナーそのものをも変えつつあるというのが、この意見なのである。

「トレンド化している」というのもある意味で似た意見である。公的な場で私的なメールをチェックするという行為が容易になったと言っても、それだけでは人々はそのような行為をしないだろう。最初は、上に述べたモラルの存在が、人々がそのような行為をするのを押しとどめていたであろう。ところが誰かがそのような行為を、たまたまかもしれないが始めると、それを見て他の人々も始めてしまうというのは考えられる事である。「赤信号、皆でわたれば怖くない」というやつである。そして徐々にそのような行為が人々の間に広まり、そのうちにトレンド化してしまうのだろう。確かに最近は、ディナーなどの公的な場でも最新のスマートフォンをある意味自慢げに操作している人を見かける事が多くなった。シンガポールのような新しい物に対する興味の大きな国ではよけいにそうであろう。

そしてその結果として、人々はどんな時でもどこにいてもインターネットにアクセスしている事が期待されている、さらには求められているようになっている。それが、「常につながっている事を求められている」ということである。確かに最近はメールの場合でも、すぐに返事が返ってくる事を私達は期待しがちである。返事が1日も返ってこないと、何かがあったのだろうかとか、先方は私とコミュニケーションしたくないのではと、よけいな事を想像しがちである。日本では、小学生などが常時携帯の電話を入れておき、友達からのメッセージにすぐさま返信する体制を常に整えているということらしいが、私自身の自分の行動を見てもそのようになりがちである事はよくわかる。そして、レスポンスの遅い者は友人達から徐々に煙たがられたり、仲間はずれにされやすいのであろう。

そして「常につながっている事を求められている」ということのベースには、人間が常に他人とつながっていたい、つまり「つながりたいという本能」が存在するという事があるのだろう。このグループに分類したより具体的な意見として、「最近は欧米の人たちに孤独感を感じる人が多くなっているのではないか」というものがあった。孤独の中で成長し自分のアイデンティティを構築する事を求められてきた欧米の人たちの、基本的な考え方そのものが変りつつあるということなのだろうか。最近のメディアがそのような流れを作り出しているというのは短絡的な意見であり、私自身はそのような最近の流れは長い時間をかけた大きな流れの中に位置付けるべきと考えているけれども、「つながりたい本能」が人々の行為の全面に現れて来ている事は確かであろう。

そしてそれらが相まって、公的・私的の境界があいまいになりつつあるという現実が存在するのだろう。そしてそのことをすでにシンガポールの若手の人たちは感じ取っているのであろう。この傾向がどこまで続くかという別の意味での重要な疑問が生じるけれども、私がずっと感じて来た疑問をシンガポールの若者も同じように感じているというのは、私にとっては重要な意味を持っている。