シンガポール通信ー京都文化博物館「平清盛展」

先週帰国していた際に、京都文化博物館で開催されていた「平清盛展」を見学した。

NHK大河ドラマ平清盛」が、低視聴率で苦しんでいるとの事である。ドラマを一度も見た事がないので、ドラマの出来についてはなんともいえないが、取りあげた相手が悪かったのではなかろうか。

平清盛展の案内では、平清盛は貴族政治が衰退した平安時代末期に当時台頭して来た武士をまとめることにより、武家の棟梁となり太政大臣にまでのぼりつめ、武士として初めて政治権力を握った「時代への挑戦者」と記されている。これを読むと、彼がなんだか清々しい青年武士であるかのようなイメージが浮かんでくる。

しかしながら私達が通常頭に浮かべるのは、後白河天皇と手を握ったり、自分の娘を入内させるなどの政治力を使う事により、徐々に天皇による政権の内部に入って行き、最後には権力のトップに立った策士というイメージではないだろうか。

そして太政大臣となって後は「平氏にあらずんば人にあらず」とまでいわれる横暴な独裁政治を行い、その結果として貴族はもとより寺社・武士などから大きな反発を受け、反平家を旗印に源氏が兵を挙げ平家が押される中で、源氏に対する平家の戦いぶりのふがいなさに怒り、最後は熱病で狂い死ぬわけである。私達が平清盛と聞いて思い浮かべるのは、この熱病で狂い死ぬという場面ではなかろうか。

実は保元の乱平治の乱を通して、平清盛によって率いられた平氏天皇による政治権力機構の中に入って行き、武力を用いて徐々に権力を得て行く過程は、「時代への挑戦者」と見なせなくもない。それではなぜ、平清盛に対して私達が持つイメージは、あまり良くないのだろうか。

それは、保元の乱平治の乱があくまで天皇を中心とした貴族内部の権力闘争であり、平氏はそのいずれかの側について戦う事により後白河天皇はじめ貴族の信頼を得て行ったからであろう。いわばその段階では、平氏はまだ権力闘争の中にある貴族グループの一方の傭兵に過ぎなかったのである。

それに対し、源頼朝に率いられる源氏は貴族政治の中に組み込まれることによって権力を握り独裁政治を行う平氏や貴族グループに対して叛旗を翻した形になる。すなわち当時の権力しかも腐敗していたと見なされていたに権力に対抗して立ったことになる。ここに源氏に対して私達が持つイメージがさわやかなものであるのに対し、平氏特に平清盛に対して持つイメージがあまり良くない理由があるのであろう。

実は平治の乱では、源氏は貴族グループのもう一方の側に立ち平家と戦って敗れている。頼朝も処刑されそうになるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命されたというのはよく知られているところである。その意味では、なんのことはない源氏も貴族の権力争いに乗じて権力を得ようとしていたわけである。幸か不幸か平治の乱では敗れたため、源氏も権力に取り入って力を伸ばしたというイメージを負わされずにすんでいるわけである。
平氏はその後源氏との戦いによって京都から都落ちし、一の谷の戦い、屋島の戦い壇ノ浦の戦いを経て滅亡へ至るのであるが、その滅亡の過程はいわゆる「盛者必衰」という日本人のメンタリティに訴えるものを持っており、平氏一門そのものに対して持つイメージは、滅び行く一族に対する哀感であって、決して悪いイメージではないだろう。

言い換えると平氏のイメージの悪い部分をすべて平清盛が担っている事になる。NHK大河ドラマはそのイメージを覆そうとした者かもしれない。その勇気はほめられるかもしれないが、やはり私達が長年の間に作られたイメージに影響されるところは大きいのであろう。そのようなイメージを覆すにはいたらなかったのではないだろうか。

とまあそのような事を考えながら、実はあまり期待しないで平清盛展に出かけたのであるが、その展示物の充実していることに大変驚かされた。平家物語を描いた平家物語絵巻、平清盛はじめ平家一門がその繁栄を願い厳島神社におさめた清盛・重盛などの自筆による経典の筆写、あるいは清盛・重盛自筆の書状など大変貴重な展示物が数多く展示してある。

しかもそれらの展示物が極めて保存状態がいいのである。これらは京都の名家に伝わるものであったり厳島神社に伝わるものであったりするが、日本が天皇家や神社仏閣という極めて長い伝統をもつ組織を持っているからこれらの歴史的資料がいい状態で保存されているのであろう。天皇家や神社仏閣にとってある意味で1000年というのは少し昔といった感覚であって、その時代の資料などもそのような感覚で保存されているのであろう。さすがにこのあたりは日本の伝統と歴史を感じさせる。



平清盛肖像



平治物語絵巻(ボストン美術館蔵)



平重盛書状(文化庁蔵)