シンガポール通信ー岩波文庫「マゼラン最初の世界一周航海」2

世界一周をめざしたマゼランの船団が、現在のマゼラン海峡を通過して太平洋に乗り出してから、東南アジアの島々に達するまでの航海に関する記録が少ない事を前回指摘した。110日を要した大航海であり、しかも食料や水の不足に悩まされ、壊血病で死ぬ乗組員も10人以上出た困難な航海であれば、その途中の記録があってもよさそうなものである。

これはこの後紹介するが、コロンブスの航海記が比較的丁寧に毎日の航海の様子を記録しているのとは対照的である。もちろん、これにはいくつか理由があるだろう。1つは、この航海記が毎日記していた日記に基づいているのではなく(もちろんメモ的なものは用意していたかもしれないが)、著者である乗組員ピガフェッタが帰国後記憶に基づいて書き記した航海記であるからであろう。

飢えと喉の乾きに悩まされた航海とはいえ、来る日も来る日も同じような単調な日が続いたことであろう。そのため、記憶の中ではこれらの日々がある意味で圧縮されてしまい、飢えとのどの渇きという記憶以外に残っていなかったため、航海記ではごく簡単な記述にとどまっているのではあるまいか。

もう1つ考えられるのは、彼等が太平洋を大海とは認識していなかったことによるのかもしれない。すでにコロンブスによりアメリカ大陸は発見されており、それが当初考えられていたアジア大陸とは異なる事は認識されていたとはいえ、アメリカ大陸のすぐ西にはアジア大陸があり、太平洋はアメリカ大陸とアジア大陸に挟まれた内海的な比較的狭い海であろうと考えられていたのではあるまいか。

そうであればすぐにでも着くであろうという、いいかえれば航海の最も困難な部分は通過したという楽観的な気分が船団を支配していたのではあるまいか。すぐにでも着くであろうと期待していれば、気力は続くものである。それに反して110日にも及ぶ大航海が待っているとわかっていれば、マゼラン海峡通過ですでにかなりの気力を使っていたであろう船団から脱落者がでてもおかしくない。

事実すでにマゼラン海峡通過の際に、船団のうちの1隻であるサン・アントニオ号は、このような苦労に満ちた航海に耐えられず、船団を離脱してスペインに戻ってしまったのである。しかももう1隻のサンティアゴ号は、狭い海峡を通過する際に難破してしまった(幸い乗組員は助けられたが)。従って太平洋に乗り出した時点で、5隻の船団はすでに3隻になってしまっていた。

もちろん、当時の航海が常に死と隣り合わせの極めて危険の多いものであることは、乗組員全員が知っていたであろう。すべての乗組員が、それを承知の上で一攫千金を夢見てこの航海に参加したといってもいいかもしれない。そのような乗組員にとって、船団から脱落者が出たという事は、心細さが増したというより戦利品を山分けする競争相手が減った程度に考えていたのかもしれない。つまり成功直前で競争相手が脱落した、戦利品は俺たちのものだというわけである。それが結果として太平洋を横断する長い航海を彼等に耐えさせたのかもしれない。

航海の途中での記述が少ないという事は、言い換えると寄港先での出来事に航海記の多くが割かれているという事である。しかも寄港先の景色や気候というよりは、寄港先で出会った現地人との接触の様子が詳しく記述されている。16世紀始めに人間が未踏の土地で人に出会う事は、ある意味で現在の私達がエイリアンに会うほどの意味を持っているのかも知れない。

それまでは、アジア大陸やアメリカの大陸の僻地には、一つ目人、牛頭人等の怪物が住んでいるとまじめに信じられていた。それが、未踏の地で出会うのが普通の人間である事がわかったのである。それは大きな驚きであるが、同時に何かしらとんでもない事を期待していたかもしれない乗組員に、ちょっとした失望を与えたのではあるまいか。

南アメリカのある島で、背の高い現地人に出会ったことを巨人に出会ったと記述し、その島を巨人の島と記述している。もちろん彼らが出会った現地人は、ある程度背は高かったのであろうが、決して「巨人」ではなかったはずである。それをあえて巨人と記述したのは、著者のピガフェッタを含めて乗組員達が、怪物に出会う事をある意味期待していたこと、もしくはそれを期待している他のヨーロッパの人々に対して、それらしい記録を書いておかねばという義務感を持ったいた事によるものかもしれない。

そしてもう1つ興味深いのは、乗組員達がこれらの初めて出会った現地人と積極的にコミュニケーションを取っている事である。もちろん言葉は相互に通じないので身振り手振りであるが、ともかくも相互の意思疎通にはある程度成功している。そしていくつかの現地人に関しては、彼等の使う言語をかなり知ることに成功し、かなり多くの単語の発音と意味の関係を航海記に記述しているのである。

この事は何でもない事のようであるが、考えてみれば大変重要な事を示している。というのはこのことが、乗組員達が未知の人種に出会った時、彼等を敵対するものとは考えずコミュニケーション可能な相手として考えているということを意味しているからである。なぜ出会った相手を敵と考えず、基本的には味方と考えるのだろう。そしてなぜ未知の人間を避けようとせず、積極的にコミュニケーションしようと考えるのだろう。

これは別に、マゼランの探検隊だけに見られる行動ではない。コロンブスの探検隊の場合も、初めて見る現地人と積極的にコミュニケーションしようとしている。このブログでも何度か書いたけれども、どうも人間は他の人とコミュニケーションしたいと思う「コミュニケーションの本能」を持っているようである。その本能の故に、他の人をコミュニケーションできる相手、いいかえると基本的には味方であると考えるようである。このあたりに「振込詐欺」や「ねずみ講」などが成立しうる鍵があるようである。